調査票結果
- 地元での呼び方
- 方言の呼称は無く、「棒術」(ぼうじゅつ)と称される。 ・下勢頭郷友会では、「チンク(金鼓)隊と棒術(ぼうじゅつ)」の呼び方もある。
武術的身体表現の形態
- 武術的身体操作・表現の形態
- 組み手の演武(舞)は、2人1組の組み手(組棒)を複数組が順番に行う。二人で構え、打ち合いを行う。棒をよけるために飛び上がるなどの動作もある。
- 武術的身体操作・表現の分類
- ■型の演武(舞)がある ■対面での打ち合い等がある ■その他(型の演武(舞)は、子どもが参加できるように工夫し演武(舞)の1つに取り入れた。)
時期・場所
- 行事が行われる期日(旧暦)
- ・生年祝いの「カジマヤー」に行われる。(一般的には旧暦9月7日に行われる。) ・下勢頭郷友会の行事等で行われ、出演依頼を受けたイベントで行われる。
- 上演の場所
- 祝賀行列の際は街頭(道路)、郷友会館、イベント会場
行事の目的・由来・伝承
- 行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
- ・演武(舞)が行われる「カジマヤー」は、沖縄では一般的に、数え年97歳の長寿の祝いとして集落(ムラ:旧字に相当する)をあげて盛大に催される祝賀。 ・「棒術」は、1971年(昭和46)に下勢頭出身で初めて「カジマヤー」を迎えた方の祝賀行列(街頭パレード)として、チンク(金鼓)隊と「棒」を出演させることになり、読谷波平(なみひら、方言:ハンジャ)の「ハンジャボー」と称される型(波平棒)を教わった。ハンジャボー指導者の名前は不明。 指導を受けたのは、2人1組の4組で 計8人。 ・「棒術」の型を教わった経緯は、喜友名朝栄(『下勢頭芸能保存会』の初代会長)の紹介により指導を受ける。
- 中断・再興の時期とその理由
- 棒術が最初に演じられたのは、1971年(昭和46年)の生年祝いの「カジマヤー」である。
- 武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
- 下勢頭が習った「ハンジャボー(波平棒)」は、1750年頃に「津堅アカナー」という武勇に優れた若者が、波平での奉公を終えて帰る時に、世話になったお礼として、波平の若者を集めて「津堅手(チキンディー)」と呼ばれる棒術(二人三尺棒)を教えたのが始まりだと伝えられる。津堅島の棒術は、津堅島のペークーガマに隠遁していた津堅親方に、唐手と棒術を学んだと言われる伝承がある。下勢頭の棒は、六尺棒を使用している。
当該行事における意味
- 行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
- カジマヤーの長寿を祝うために、チンク隊を先頭に街頭を練り歩き、途中、棒術の組手を披露する。
組織・指導者・伝承方法
- 組織
- ・下勢頭郷友会:戦後は、当初「字下勢頭会」、1955年(昭和30)年から「下勢頭部落会」の名称を使用、「下勢頭郷友会」と名称の変遷がある。 ・下勢頭芸能保存会:1976年(昭和51)年の結成。
- 組織の特化
- ■武術の部分に特化した組織がある
- 各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- (戦後結成)郷友会(1評議委員会、2芸能保存会、3OB会、4青壮年部、5婦人部) ・芸能保存会:1976年(昭和51)に発足。古典音楽・舞踊・演劇(アシビ)の3部門を統括した組織。発会当時は50人。 ・目的:下勢頭芝居に演出された舞踊・演劇、その他集落行事に附随して行われた一切の芸能を保存し、これらを伝承させると共に郷友会員の親睦と団結を図ることを目的とする。 ・「北谷町下勢頭郷友会 チンク隊保存会」は、チンクと棒術を保存・継承している。
- 指導者の氏名(さかのぼるまで)
- ・「棒術」:下勢頭が習った読谷波平(なみひら、方言:ハンジャ)の「ハンジャボー」の指導者の名前は不明。 ・最初に指導受けた方々は8人で(:1喜友名氏(屋号:三良平良)、2花城氏(屋号:灰土花城)、3喜友名氏(屋号:武戸喜友名)、 4花城氏(屋号:上ノ松花城)、 5花城氏(屋号:東リー花城)、6佐久川氏(屋号:下原佐久川小)、7瑞慶覧氏(屋号:瑞慶覧小)、 8花城氏(屋号:下ノ花城) 現在は、上記の諸先輩方から受け継いだ、喜友名氏を中心とする他7人の方が指導を行っている。
- 出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
- 棒術は基本的には青・壮年で行う。組み手は怪我をする危険があるため、子どもの場合は型を演武(舞)する。
稽古の仕方、期間
- 稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 現在は、本番の2・3ヶ月前から練習する。
- 稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 普段は自宅で練習する。集団で行う場合は、郷友会館。
演舞(武)構成
- 演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
- ・カジマヤーの祝賀行列では、「チンク隊」(ボラ(法螺)、ソーグ(鉦鼓)、テーク(締太鼓、大太鼓)の次に隊列を組んで並び行進する。7ヵ所の十字路で地域の方々にご披露し、皆で長寿を祝う。祝賀行列の際は、行列を止めて路地で組手を行い、お祝いの主人公の孫による「長刀(なぎなた)」の演武(舞) をしたこともあった。 ・北谷町主催の民俗芸能鑑賞会では、チンク隊と棒術の演者は総勢15~20名、棒術は2人1組の3~4組。「道ズネー」の隊列で入場し、組み手(組棒)を演武(舞)し、子どもが参加する場合には、型の演武(舞)を行う。入場と同様に隊列で退場する。ある公演では入退場含め20分程度であった。また、郷友会会員の「サイ」の演武(舞)も取り入れたこともある。 ・沖縄まつり江戸上り及びカチャーシー流し大行列に出場。琉装の侍姿の先輩が先導役として出演した。総勢50名を超えたこともある。 ・沖縄国際カーニバルに参加の際は、棒術の組み手も演じた。 ・出演会場に合わせた構成を行う。
- 集落以外での披露の有無
- ■集落以外(市町村内)で演武(舞)したことがある ■公民館やホールなど(市町村外)で演武(舞)したことがある(国立郷土劇場、ちゃたんニライセンター等) ■その他(野外イベントである、「沖縄まつり江戸上り及びカチャーシー流し大行列」、「沖縄国際カーニバル」、本町の「ちゃたん芸能の夕べ」に出演。)
衣装・道具
- 衣裳・道具の名称と着方
- 棒術は、頭には紫色のサージ〔長巾(ながきれ)または、長布。〕、紫色の襷(たすき)、上下白色のシャツとズボンでシャツの胸元には赤字で「下勢頭」、黒地に金色の縞模様の帯、脚絆、白色の足袋または運動靴、素足の場合もある。サージの巻き方は、エイサーの装束と同じ巻き方である。棒術とチンク隊との違いは、陣羽織(縁は金色)を着け、緑色の帯。
- 衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
- 下勢頭郷友会館(令和4年改築)に、棒、法螺(方言名:ボラ)、鉦鼓(方言名:ソーグ)、銅鑼(方言名:ドラ)の用具は保管されている。郷友会の行事として「旗スガシ―」がおこなわれており、所有する物品等の虫干しを行う行事が継承され行われている。
- 衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
- 衣装、棒ともに市販されているものを購入し、保管については郷友会で行われている。
- 棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
- 棒は、折れにくい樫製を使用している。打撃音も良い音が鳴る。
音楽
- 楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
- ・チンク隊として演じる際には、法螺(方言名:ボラ)、鉦鼓(方言名:ソーグ)、銅鑼(方言名:ドラ)、締太鼓(方言名:テーク)、大太鼓(方言名:テーク)が音を出しリズムを奏でる。 ・演奏者の数は流動的で、本町で開催された 「芸能の御庭(じーぬー ぬ うなー)」(舞台公演)の場合は、ボラが1人、ソーグ1人、ドラ1人、テーク8人(締太鼓 6人、大太鼓2人)の計11人であった。
- 楽曲(戦前、戦後の変化)
- ・チンク(金鼓)隊の演武(舞)は、各楽器が奏でる音のリズム(調子)。音色やリズムの速さや、強弱がある。 ・祝賀行列のカジマヤーでは三弦(サンシン)が参加した。
課題
- 支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
- ・継承者の育成。 ・カジマヤーの祝賀行列を行うには、道路使用許可が必要となるため困難となっている。 ・集落(ムラ)跡は、米軍基地嘉手納飛行場内に所在する。戦後、下勢頭郷友会が組織され、集落(ムラ)の行事や郷友会活動を行っている。様々な地域で暮らす会員を集めることもあり、人員を揃えることや後継者の育成にも課題がある。
- コロナで影響を受けたこと
- コロナ禍で郷友会の行事やイベント等が開催されないため、披露する機会がない。
記録
- 文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
- ■文献■映像記録 (郷友会会員の祝賀行列、北谷町自主文化事業〔生涯学習プラザ文化事業係〕 の公演) 文献『下勢頭誌』 戦前編・戦後編 発行年月日:2005年7月 編 集:下勢頭誌編集委員会 発行者:北谷町下勢頭郷友会 『北谷町の地名 北谷町文化財調査報告書第24集』 発行年月日:2006年3月 編 集:北谷町教育委員会 発行者:北谷町教育委員会 『検証 沖縄の棒踊り』発行年月日:2019年 著:勝連盛豊 発行者:沖縄文化社 『読谷村史 民俗』 上・下 発行年月日:1995年 編集:読谷村史編集委員会 発行者:読谷村役場 『沖縄大百科事典』 上・中 発行年月日:1983年 編集:沖縄大百科事典刊行事務局 発行者:沖縄タイムス社


