調査票結果

年中行事名
■その他(ムラアシビ)
市町村名
宜野湾市
行政区
新城
小字名
新城原
地元での呼び方
マールアシビ

武術的身体表現の形態

武術的身体操作・表現の形態
戦前  組踊:「本部大主」「国吉の比屋」「伏山敵討」「手水の縁」「森川の子」「忠孝人」で棒術や殺陣が取入れられている。  棒踊:ボウマチ(棒巻) 三尺又は六尺の棒を持ち、最初は法螺貝の音に和して一列に進み螺旋を巻き之を解いた。それから二人ずつ打ち合いの型をやり、又渦巻をやって退場した。之を芝居の前後に2回行った。 現在は組踊で使うのは短刀のみで空手の要素はない
武術的身体操作・表現の分類
■芝居の中で武術的所作が演じられる

時期・場所

行事が行われる期日(旧暦)
寅・申年の旧暦9月のタントゥイ(種子取)後。旧暦9月15日頃
上演の場所
集落外れにある遊び庭(アシビナー)に仮設舞台を作った

行事の目的・由来・伝承

行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
ムラの神々に五穀豊穣を感謝し、豊年を祈願する。 新城で病気が流行した際、あるサンジンソウに7年に1度ムラアシビを行うよう指示された。という伝承もある
中断・再興の時期とその理由
戦時体制下に入り青年達が徴兵されたことで行事の開催が困難となり、中止をよぎなくされた

組織・指導者・伝承方法

指導者の氏名(さかのぼるまで)
以前にその芝居に出演したことのある先輩が後輩に教えるという形で代々受け継がれた。 ムラの代表者数名が那覇まで泊まり込みで芝居を見に行き、内容を分担して覚えたものを皆に教えて指導した。
出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
男性のみ。20歳前後の青年が中心となったが、男の子は4~5才になると「長者の大主」でオージメー(扇舞)を舞い、若衆踊りを踊るなど、子供の頃からその年齢に応じた演目に出演した

稽古の仕方、期間

稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
芝居の練習は2~3カ月前から昼頃から夜遅くまで行われた。棒の練習はアラグスクガー近くの広場で3カ月ほど前から行われた。 帰村祝いのアシビ(1947)の際、練習は2カ月ほど前から松堂の屋敷で行われた。
稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
芝居の練習はムートゥヤー(主に石原)で。棒の練習はアラグスクガー近くの広場で3カ月ほど前から行われた

演舞(武)構成

演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
戦前:道ジュネー→棒シンカによる棒→舞台での踊り

衣装・道具

衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
戦前:衣装・小道具・台本などは全てムートゥヤーの石原に保管されていた。
衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
戦前:購入するお金はないので普天間や野嵩から借りた 1932年はシルークルー闘争の影響で石原(政友)、松堂(民政)の二カ所に分かれて行った。衣装・小道具などは松堂側は自分たちで作って用意した。 1947:帰村祝いのアシビ。衣装は自分たちで工夫して作った。

記録

文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
■文献: 『宜野湾市史第五巻』資料編四民俗 宜野湾市 1985年 、 『市内民俗芸能調査報告書村芝居-ぎのわんのムラアシビ-』沖縄県宜野湾市教育委員会文化課 2001年(市史第五巻(2100円)、村芝居-ぎのわんのムラアシビ-(1000円)は複写可能。また、宜野湾市教育委員会文化課もしくは宜野湾市立博物館にて販売しております) 『宜野湾市立博物館 秋の企画展 展示図録 宜野湾のムラアシビ』 宜野湾市立博物館 2014(複写可能 宜野湾市教育委員会文化課)