調査票結果

年中行事名
■豊年祭(綱引きと村芝居(近年村芝居なし)綱引きの後で「棒使い」とよばれる棒術を行う) 
市町村名
浦添市
行政区
前田
小字名
(メーダ)
地元での呼び方
・旧暦6月に綱引き(綱引きの後に「棒つかい」(昼間))と「村芝居」(夕方から夜にかけて)が隔年で行なわれたが、現在は村芝居は行われない。 ・綱引き(旧暦6月25日)に村を東村渠(アガリンダカリ)と西村渠(イリンダカリ)に分かれて、東村渠が雄綱(ヲンナ)、西村渠が雌綱(ミンナ)を作り、ひいた。「西ヌ勝チネー世果報(ユガフ)」とされた。

武術的身体表現の形態

武術的身体操作・表現の形態
・「棒つかい」と呼ばれる。 ・綱を引き終えたら、その後1時間ばかりの間に、ガーエ、旗頭持ち、棒、空手を順序にしたがい演武した。
武術的身体操作・表現の分類
■型の演武がある ■対面での打ち合い等がある

時期・場所

行事が行われる期日(旧暦)
・旧暦6月の豊年祭の一環で行われる。 ・令和4年は、コロナ禍で綱引きは3年連続で中止になったが、7月23日(旧暦6月25日)に「綱引きウガン」を集落内16カ所を自治会三役等数名で回って、部落民の健康祈願を行った。
上演の場所
・「メーシジモー」(公民館の前庭)とよばれた場所。戦後の現在の公民館(自治会館)建設前までは、少し段差のあるこんもりして木々が茂る広場であった。現在は戦後、その場所は公民館を作った。部落の中央広場で綱引き場でもあった。 ・現在は、部落行事の合同生年祝や敬老会などで棒演舞を披露することがあるが、コロナ禍で行事開催ができていない。

行事の目的・由来・伝承

行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
長老の話によれば、「棒つかい」も「村芝居」も前田の発展や子孫の繁栄、それに豊年満作の祈願や感謝の気持ちをこめて、その真心を神様に捧げる行事で、弥勒世(ミルクユー)をたまわれと念願する行事。神様を招待してみてみてもらう行事、方言では「お神の御取い持ち(ウカンヌウトゥイムチ)」を目的とする。 ・一年おきに「棒つかい」と「むら芝居」がある。 ・旧暦「八月遊び(ハチガチアシビー)」の中で、演武された。村の発展、子孫繁栄、豊年満作の祈願をこめて行う。
中断・再興の時期とその理由
・戦後、途絶えたが現在の区長が小学校高学年の頃、1965年頃に復活した。 ・復活の契機になったのは、浦添市の「てだこ祭り」が(昭和53/1978)「てだこの都市・浦添」の一環で開始される。各字とも自慢の芸の披露を求められたので、復活の原動力になった。
武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
・英祖王統の1260年代から起源をもとることができると、著作物で紹介される。棒術、棒の型、棒法を幾年代の中で伝承されてきた、とされる。

当該行事における意味

行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
・綱をひき終えたら、その後1時間ばかりの間に、ガーエ、旗頭持ち、棒、空手の順序にしたがい演武した。 ・「巻き棒」も「配列棒」も集団演武として、「棒つかい」の花方で、最高の見せ所であったが、現在(昭和52年8月)では部落あげて多人数で行う「棒つかい行事」はなくなった。 ・昔(戦前)のような豪華な「巻き棒」や「配列棒」はみられなくなった。

組織・指導者・伝承方法

組織
・現在の会長は、今年度(R3)から保存会長(自治会役員)を担う。小学校低学年頃からの経験を積んできた。 ・コロナ禍前までは通年で毎週水曜日午後8時~9時まで自治会(公民館)前で棒の練習を行っていたが、現在はコロナ禍の影響でできない。 ・コロナ禍前まで浦添前田出身の小学生~中学生を中心に約20人(男女)で練習を行っている。 ・保存会の会員は15人程度で、指導は会長や数名の青年が行っている。 ・構成員は、基本的には、前田集落の住んでいる人、嫁いだ人も入れていたが、最近はなくなった。
組織の特化
■武術の部分に特化した組織がある(保存会設置)
各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
・伝統を継承するために、自治会が主体となって保存会を設立し、地域内で継承者の育成に努めている。 ・前田小学校校区の幼稚園生や小学校4年生の郷土の学びで、集団演舞(武)に前田棒を取り入れてもらい地域の文化の継承と魅力の発信に努めている。 ・自治会や市が保存会活動の支援金(自治会からは年間10万円/指導者はボランティアで、経費はお茶代や弁当代などで活用)、浦添市からは市指定無形民俗文化財のため、申請に基づき、年3万円が提供される。
指導者の氏名(さかのぼるまで)
比嘉シンスケさん(令和元年死去)、前会長の比嘉氏は、令和元年まで現役の棒使いだったが、コロナ禍による行事中止で参加ができなくなった。
出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
・戦前までは、棒術は数え15歳~35歳までの前田集落の男子全員で行なっていたという。 ・当時は「棒使い」ができない者は「男とあらず」の風潮があったとされる。 ・現在は30代の保存会メンバーが前田小学校に通う小学生(男女問わず)20人に定期的に公民館前で指導しているという。

稽古の仕方、期間

稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
戦前は旧暦8月1日から1日越しに踊りと棒勢(ボウシンカ)を行った。稽古を重ね10日に「前遊び(メーアシビー)」と呼ばれた予行演習があった。13日、15日、17日が「正日(ショウニチ)」と呼ばれた本番で、18日に「後遊び(アトアシビー)」があった。 現在は、 旧暦6月25日に綱引きウガン(集落内16か所程度)を自治会三役らで回って、拝みを行っている。本来は、その後の週末から綱の準備を行い、その翌週末に綱引きや棒を行うという。
稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
・棒の練習場所は、「メ―シジモー」(段差のある広場(20m×20m程度の広場)で、その場所は現在の公民館が建ったので、戦後間もない頃の面影は現在は見られない。 ・現在の区長さんが小学生1年の頃(昭和36年頃)までは、前田集落は浦添グスクの南側に広がる豊かな水田地域として水稲が盛んであったが、その後数年のうち(昭和30年代後半)に甘蔗(サトウキビ)栽培に転作したので、現在では水田があったことのイメージができない。

演舞(武)構成

演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
戦前生まれの古老の記録によると、20種類あった。 ・一人棒(一人振り) 周氏の棍、趙雲の棍、志喜屋中の棍、前田棒、前田の棍(5種類)は集団で演武する。 ・二人棒(タイボー/二人組棒) 三尺と六尺、槍と長刀、六尺と六尺(棍の棒ともいう)、サイと六尺(4種類) ・三人棒(ミッチャイボー/三人組棒) 一人は六尺、2人は三尺をみおって、1人と2人で計3人の組棒(1種類) ・巻き棒(マチボー)全員で大広場で行う。2列になって、それぞれ自分の棒を右手に高くささげ持ち、ドラ鐘や太鼓の音にあわせて、かけあしで「うず巻き行進」をなし、指揮者の一段大きく打ち鳴らすドラ鐘の合図と、かけ声(音頭をとるため、「ヒィーヤアーイッ)に応えて全員が腹の底から出す大きな声で「ヤィッ、ヒヤッ」と身振りと共に応ずるもので、これを幾度も繰り返して気勢をあげる。 ・ふえーい棒 (配列棒というか)全員が大広場で一列にひろがって配列し、一斉に(同時に)、1人棒、2人棒、3人棒、サイと棒等、全部の種目を演技する。多人数で同時にやる「集団棒つかい」。 ・現在、保存会では、一人棒(周氏の棍、趙雲の棍、志喜屋中の棍、泊の棒、前田棒)、二人棒(三尺と六尺)しか伝承しかできない。巻き棒(マチボー)は、会長が小学生の頃の行っていた記憶(約50人程度が参加)があるが、今ではできないという。
集落以外での披露の有無
■集落のみでしか演武したことがない ■集落以外(市町村内)で演武したことがある ■公民館やホールなど(市町村外)で演武したことがある(コロナ禍の中であるが、浦添市と姉妹都市である愛知県蒲郡市(がまごおり)の市制60年の祭りに浦添市からの派遣依頼があり(派遣費の半額補助)小学生ら10人、保存会長らが浦添市職員の引率で出演(令和4年8月初め) 

衣装・道具

衣裳・道具の名称と着方
現在、衣裳は、空手着(上下)を使用。頭には紅白の2種類の「はちまき」を巻く。マチボーやタイボーでは、赤(あか)と白(しろ)のはちまきを巻く。はちまきには、「前田棒保存会」と記している。
衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
・衣裳の管理は会員個々人が保管する。 ・ハチマキは、以前は幅広の木綿タオルを巻いていたという(戦後)。
衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
個々人で保管。
棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
守礼堂から購入した。

音楽

楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
・勇壮活発で独特のドラ鐘(カニ)の打ち方と「フィーフィー」という独特の指笛によって演じられる。戦前までは太鼓もあったという。 ・カニを鳴らす人は、現在は保存会長が行うが、以前は長老たちが行った。
楽曲(戦前、戦後の変化)
特にないが、棒使いに合わせた独特のカニ(銅鑼鐘)の使い方や指笛の鳴らし方がある。

課題

支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
・継承者不足が課題である。 ・戦後途絶えた行事が、てだこ祭り等を行う前から復活した。現在の石川区長さんらが小学校高学年の頃(昭和40年代)に、復活の機会があったという。現区長たちが小学校高学年頃は羞恥心が強く、先輩方が教授する機会を逃していたが、当時低学年の生徒たち(現保存会長ら)が戦後の棒術の継承を担い今日に至る。 ・コロナの中で、行事自体が開催できないでいて、練習もままならない。
コロナで影響を受けたこと
・コロナ禍の中で2020年度から22年度(本年)まで3カ年間、人が密集する綱引き行事を中止している。そのため、棒術の披露の機会がなく困っている。

記録

文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
■文献 ■映像記録(浦添てだこ祭に出演した記録が行政で保管している可能性あり、1992首里城正殿復元の際の杮落し公演で戦後活躍された先輩方が演舞している) ■古老の記録、メモ(昭和55年の浦添市史担当事務局編の「前田棒について」は前田出身の古老の記録) 『浦添の文化財』(浦添市教育委員会編/昭和55年2月)16p. 『浦添市史(第3巻資料編2民話・芸能、美術、工芸)』(浦添市史編集委員会編/昭和57(1982)年3月)247-248p.p. ・綱引きでの棒術や空手の言及については同書 246p. 「前田棒について」『浦添の歴史資料シリーズⅢ 前田の民俗』(浦添市企画調整室市史担当事務局編/昭和55(1980)年3月)52-56p.p. ・1981(昭和56)年3月2日浦添市指定民俗文化財に保持団体として認定 ・コロナ禍の中で、この2年間練習することができていない。てだこ祭りや芸能発表会、豊年祭、前田区の生年祝や敬老会と年間を通して発表の機会があることが練習の励みになってきているが、保存会は、地域の文化を絶やしてはいけないとの使命感をもって、継承に務める。