調査票結果
- 地元での呼び方
- 棒術
武術的身体表現の形態
- 武術的身体操作・表現の形態
- 棒術
- 武術的身体操作・表現の分類
- ■型の演武がある ■対面での打ち合い等がある
時期・場所
- 行事が行われる期日(旧暦)
- 旧盆明け亥の日(ウンガミの日)
- 上演の場所
- 公民館前またはお宮前の広場(広場、とのみ記載があるため詳細不明だが、ウンガミの日に行われたことが文献より読み取れるため、その会場となる公民館前かお宮前であると推察できる。)
行事の目的・由来・伝承
- 行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
- 大宜味村内で記録にある中ではほかに棒術が行われている集落はなく、なぜ饒波だけだったのか、どのように伝わってきたのか不明である。
- 中断・再興の時期とその理由
- 終戦直後は行われていたが、その後途絶えている。復活を望む声もあるが、指導者や記録がなく復活できない。 聞き取りしたところ、「鎌を使用する演舞が危ない、ということで棒のみに縮小された。その後、後継者・指導者が育たず、いつしか行われなくなった」とのこと。 また、戦前から大工として出稼ぎに行く若者が多く、また戦後も復興期大工として県内全域で活躍する人も多く、集落に残る若い男性がそれほど多くなかったことも原因か?とも推測される。
- 武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
- いつのころ、またどこからつたわってきたのかわからない。
当該行事における意味
- 行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
- お宮での奉納舞踊を行い、道ジュネーで公民館前まで帰ってきたあと、舞台での芸能前に公民館前の庭で行った。
組織・指導者・伝承方法
- 組織
- ウンガミの実行委員会が組織される。区長が会長、その他集落の各団体(婦人会・青年会)の代表などが代議委員として参加する。
- 指導者の氏名(さかのぼるまで)
- 棒の師匠については不明
- 出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
- 戦後覚えている範囲では、比較的若い~中年頃の男性が行った。
稽古の仕方、期間
- 稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 約1か月前から各舞踊等の準備を行うため、同じくらいのタイミングから始めたのではないか。
- 稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 公民館前の広場
演舞(武)構成
- 演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
- ブラーというほら貝で作った笛を連続的に吹き鳴らしながら駆け足で広場を右回りで一周し、やがて奇数偶数に分かれて外から中心へ、中心から外へのとまわる。先頭の人は、薙刀を持ち、後続の人は、六尺棒、三尺棒を持つ。両先頭のなぎなたを持つ人はヒヤーという声を発して身をかわすふりをする。その後に個人個人の棒術が続き、一人棒、二人棒、巻き棒などいろいろな方が披露される。 鎌を使用したの演舞を見たことがある。
- 集落以外での披露の有無
- ■集落のみでしか演武したことがない
衣装・道具
- 衣裳・道具の名称と着方
- なぎなた・鎌・六尺棒・三尺棒
- 衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
- 父が参加しており、衣裳やなぎなた等自宅に保管してあったのをかすかに覚えている。ただ、引っ越しのごたごたの中で盗まれたのか、なくしたのか、朽ちて捨てられたのか、原因は明確にはわからないがいつしかなくなってしまった。
- 衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
- 現在の奉納舞踊道具は自分たちで前の物をまねて作成するため、同じように自分たちで作成していたと思われる。
- 棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
- 現在残っていないため不明
音楽
- 楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
- ほら貝(ブラー)
- 楽曲(戦前、戦後の変化)
- 曲等はなかったと思うが、覚えていない。ほら貝は吹いていた
課題
- 支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
- 過去行われていたものがどのようなものだったのか調べて記録などに残せれば嬉しい。 現在は長く行われず存在を知らない人もいるが、昔まだ覚えている世代では復活を望む声もあった。
記録
- 文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
- ■文献 饒波誌(上運天綾子の証言として記載) 大宜味大工一代記(昭和63年金城賢雄この中で、「近年行われなくなったことが残念である」との記載があるため、昭和63年にはすでに中断していることがわかる)


