調査票結果

年中行事名
■豊年祭
市町村名
名護市
行政区
数久田
地元での呼び方
昔からは「ムラウドゥイ(村踊り)」、「ハチガチウドゥイ(八月踊り)」、「ムラアシビ(村遊び)」などと呼ばれるが、近年は「ほうねんさい(豊年祭)」と呼ぶのが一般的になっている。

武術的身体表現の形態

武術的身体操作・表現の形態
数久田では「ボー(棒)」と呼ばれる棒術が披露される。数久田の棒は他の区からオーイボー(けんか棒)といわれ、組棒では真剣に棒を打ち合う激しさで有名である。〔『名護市史 芸能編』〕
武術的身体操作・表現の分類
■型の演武がある ■対面での打ち合い等がある ■その他(ボーグミ(棒組)全員によるスーマキ(総巻き)がある。)

時期・場所

行事が行われる期日(旧暦)
旧暦八月九日、十一日、十二日の3日間
上演の場所
八月九日の初日の朝は、ボーシンカ(棒組)はフクチバルの拝所にてカミンチュ(神人)と一緒にウガン(御願)をしてから、ボー(棒)の演武をして奉納する。祭事の3日間は、舞台芸能のプログラムが始まる前と最後の2回、公民館前の広場にて演武を披露する。

行事の目的・由来・伝承

行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
○行事はムラの豊年満作と区民の健康祈願を目的に開催される。 ○村踊りそのものは1851年に数久田に伝わったといわれ、導入したのは富裕家で知られるキナーヤ(喜納屋・玉城姓)とされている。これとは別に、幸喜部落は首里の踊奉行だった人物から踊りを習い、数久田はその幸喜から習ったとの伝承もある。これは1879年以後の時期である。〔『名護市史 芸能編』〕
中断・再興の時期とその理由
戦前は2度村踊りが中断した。最初は1898(明治31)年~1912(大正元)年の期間で、その翌年から再興した。次は戦時下にあった1945(昭和20)年だった。終戦翌年の1946(昭和21)年から村踊りを復活させた。物資がない時なので、4~5年間はドラム缶を並べた上に鉄板を敷いただけの舞台であった。〔『名護市史 芸能編』〕
武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
ボー(棒)についてはいつ頃に伝わったかは不明とされているが、ムラ踊りと同じ時期ではないかといわれている。棒にまつわる言い伝えとして、メージョーヤ(前門屋)の初代である島袋山戸が村踊りを数久田に導入したとされるキナーヤの娘を嫁にしたので、その縁でメージョーヤは棒で重要な役目を担っているという。、「ユンタンジャグヮ(読谷山小)」の型は戦前、読谷から習ってきた型である。〔『名護市史 芸能編』〕また、「大比嘉区長によれば、読谷山(ボーユンタンジャ)」についても読谷から習った型と伝えられるが、時期がいつ頃かははっきりしない。

当該行事における意味

行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)

組織・指導者・伝承方法

組織
○棒の演武者は「踊り組」に対するものとして「ボーグミ(棒組)」と呼ばれる。組織のリーダーを「ボーガシラ(棒頭)」といい、成員の中から、棒の経験を積み演目全体に詳しい人で、かつジンブン(知恵)のある人が選ばれる。〔『名護市史 芸能編』〕 ○踊り部に全体を仕切る会長が置かれ、棒組にも全体をとりまとめる会長が置かれる。会長は知花氏が務め、指導的な教師も兼ねた。棒頭は比嘉氏が務め、教師助手には島袋氏があたった。
組織の特化
■武術の部分に特化した組織がある(保存会設置 ※常設の保存会との名称はないが、「棒組」として組織化される。)  ■武術の部分は専門の師匠がいる
指導者の氏名(さかのぼるまで)
2004年の指導者は島袋清を中心に4~5人であった。〔『名護市史 芸能編』〕
出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
出演者の条件は、40歳未満の男性であることだが、年配者が演じたこともある。〔『名護市史 芸能編』〕

稽古の仕方、期間

稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
○棒の練習は旧暦8月1日の棒御願から始まる。この日程は若干の変更もある。夕刻、ミーバシ(前平橋)に集まり、轟の滝に向かって安全祈願をする。これをティクバイ(手配)といい、この時に各棒の配役が決まる。2日後の旧8月3日から浜(現在は野球場のグラウンド)で練習を開始する。浜では安全祈願のハマウリウガン(浜下り御願)をする。旧8月9日の本番当日は午前10時頃から午後4時頃まで轟の滝近くで練習の仕上げをする。〔『名護市史 芸能編』〕
稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
○棒は今回ほぼ一週間の練習期間だった。体育館で練習を行った。出演者25名のうち3名が初めての出演だった。

演舞(武)構成

演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
○棒の型は13種類ある。最初は棒組全員による「スーマキ(総巻)」、次に「マヤー(猫)棒」、「ロクシャクノウラ(六尺の裏)」と続く。始まりはこの三型で、この順に従う。スーマキは「総巻」とあて、全員で行う。チングー巻(機織の道具)やナカジン(中陣割り)といって、中心から二手に分かれる等の隊形がある。マヤー棒は、演武内容が猫の喧嘩を表しているといい、手数が最も多いので経験を積んだ上手な人が担当する。最初の三型の次は「中棒」といって二人一組で行う。「ムッコーガメー(向こう構え)」、「ミーボー(新棒)、「ユンタンジャグヮ(読谷山小)」、「ヤイトゥシャク(ヤリと尺)」、「ハラボー(空棒)」「ヤイヌウトゥ(ヤリの弟)」で構成される。6つの型を織り交ぜて演目数を増やしている。ムッコーガメーは、棒を両手で頭上に持ち上げ、頭(向こう)を打たれるのを防ぐ構えである。ミーボーは戦後、数久田で創作された型である。ユンタンジャグヮは、戦前読谷から習ってきた型である。ヤイトゥシャクは、槍と三尺棒を使う。ハラボーは他と異なり、棒を叩き合わせないという特徴がある。ヤイヌウトゥは、手数が少なく、他の棒よりも易しい。後半は、「トゥヌギャー(飛棒)」、「大読谷山(ボーユンタンジャ)」、「ヤイボー(ヤリ棒)」、「サンニンボー(三人棒)」の順という。(2006年の演目は後半はこの通りにはなっていなかったとう。)トゥヌギ(ジ)ャーは「トビボー」ともいい、あちこちに飛ぶのが特徴である。サンニンボーは、その名のとおり、三人で演じる。この型は舞台前にはなく、後半にのみ行われる。〔『名護市史 芸能編』〕 ○今回披露された棒はプログラム順に以下の通りで、全部で22演目であった。1「スーマキ」、二人一組の2「マヤ棒」、3「ロクシャクヌウラ(6尺の裏)」、4「ムッコウガメー(向こう構)」、5「シャクノウラ(尺の裏)」、6「ユータンジャーグヮ(読谷小)」、7「ムッコウガメー(向こう構)」、8「ヨコウチボウ(横打棒)」、9「ミイボウ(新棒)」、⑩「シャクノウラ(尺の裏)」、⑪「ヨコウチボウ(横打棒)」、⑫「カラブイ(空棒)」、⑬「ヤリと尺」、⑭「ムッコウガメー(向こう構)」、⑮「シャクノウラ(尺の裏)」、⑯「ヤリとウトゥー(弟)」、⑰「ムッコウガメー(向こう構)」、⑱「向こうテイ」、⑲「トゥヌギャー(飛棒)」、⑳「ボーユンタンジャー(大読谷)」、21「ヤイボウ(ヤリ棒)」、「サンニンボウ(三人棒)」。市史の記述にはない型がいくつかみられるが、基本的には伝統的な順番の構成で演武されていることがわかる。
集落以外での披露の有無
■公民館やホールなど(市町村外)で演武したことがある ■その他(1998年頃に座喜味城跡で演武披露、また2009年に国立劇場おきなわで公演)

衣装・道具

衣裳・道具の名称と着方
衣装は、白の上着に白のズボン、黒地に青の縁取りのある羽織(マヤー棒の二人はきらびやかな羽織)に赤や紫の長巾でたすき掛けをし、腰も赤や紫の長巾で締める。足には脚絆を巻き、地下足袋、頭は紫の長巾で締めるか、白鉢巻である。地下足袋だけは自前であるが、他は区が用意する。演舞の際に使用する楽器は、ドラ鉦と大太鼓、ピーラルラー(路次楽)がある。棒術に使用する棒は「ボウ」と呼んでいる。〔『名護市史 芸能編』〕
衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
衣装や楽器、棒は区の公民館や体育館で保管している。衣装は区から依頼された支度係が洗濯や虫干し等の管理を行っていた。現在では衣装類は舞台公演の衣装も含めて、豊年祭の後にクリーニング店に出して洗濯をしている。経費は区費から支出している。棒は体育館に保管しておく。保管についても、棒の強度をあげるため、熟成させる意味で、1~2年程使用使用することなく寝かせておくという。〔『名護市史 芸能編』〕
衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
衣装は店に依頼して購入している。棒の原材料は名護市の製材店から加工してもらい購入している。
棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
使用する棒は樫の木の原材料を角材の段階で、独自に加工して防水処理を施しておく。〔『名護市史 芸能編』〕

課題

支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
踊り手が少なくなっていることもあり、中学生から高校生、大学生も出演して頑張っている。踊りに関しては数久田に女性の教師がいるので、指導してもらっている。以前は豊年祭の前、2カ月ほど前から練習していたが、仕事を持っている人もいたり、期間が長くなり負担も多いので、最近は短期間(ほぼ2週間)で練習をして仕上げるようになっている現状がある。
コロナで影響を受けたこと
一昨年度の豊年祭は1日のみ開催として、舞台芸能も演目を半分くらい(通常は23ほどの演目上演)にして、縮小した。外部への招待や案内もなくして、区民だけを対象とし、全体のプログラムも午後10時頃に終了した(通常は午前0時近くで、昔は組踊が長いもので3~4時間のものがあり、午前3時頃までかかったこともあった)。昨年度からは通常のような形に戻して、実施している。コロナの影響などもあり、芸能の踊り手も少なくなったという。

記録

文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
■文献 名護市史編さん委員会編 『名護市史 本編8 芸能編』名護市 2003年〔65頁~83頁〕 、名護市史編さん委員会編 『名護市史 本編9 民俗Ⅰ』名護市 2001年〔115頁~127頁〕 ■映像記録 名護市教育委員会による1983年の調査記録(ビデオ録画と観察記録)、名護市教育委員会文化課市史編さん係による報告(写真・ビデオ・報告書・プログラム) 数久田区「数久田のムラ踊り 1999年豊年祭り 9月20日(旧8月11日)ムラ踊り正日」VOL.1・2(VHS)ほか、平成14・17・18・19・21・30年度のVHSビデオテープなどが公民館事務室に保管されている。なお、令和5年度の映像記録と写真集も整備されている。 ■プログラムや式次第