調査票結果
- 地元での呼び方
- 戦前は「ムラヲゥディー(村踊り)」と呼んでいたが、戦後は「ホーネンオドリ(豊年踊り)」、「クングヮチクニチ(九月九日)」などと呼ばれている。プログラムなどでは「豊年踊(り)」と表記されている。
武術的身体表現の形態
- 武術的身体操作・表現の形態
- 仲尾次では「ボ-ホ-(棒方)」と呼ばれ、棒の演武が行われる。
- 武術的身体操作・表現の分類
- ■型の演武がある ■対面での打ち合い等がある ■その他
時期・場所
- 行事が行われる期日(旧暦)
- 0豊年踊りの行事自体は、本来は旧暦9月7日~10日の期間である。9月7日がメージュクミ(前仕込み。仲尾次では「前仕組」とあてる)、9月8日スクミ(仕込み)、9月9日がソーニチ(正日)で、9月10日がワカリ(別れ)の日程で行われてきた。 02023(令和5)年は、旧暦の期日に合わせるとソーニチとワカリは新暦10月23日(月)・24日(火)であるが、平日にあたるため、土日にあたる10月28日(土)・29日(日)に変更となった。仕事をもつ若年層の意見を汲み入れ、区民や文化部長らの意見も反映されて、初めての土日開催となった。
- 上演の場所
- 0明治の頃は昼にアシャギミヤー(あしゃぎ庭)、夜にハンカジョミヤー(はんかじょ庭)で行われていた。大正時代から1928(昭和3)年頃までは、仲尾次馬場でスクミとワカリが行われた。1951(昭和26)年にはバンク(仮設舞台)が古くなったこともあり、1952年からは公民館前に張り出し舞台を設けて、広場を合わせての開催となった。棒は道ジュネーではアシャギミヤーとハンカジョミヤーで披露される。また、棒方の最後の演武は鉄次屋で行われるのが慣わしであった。〔『名護市史 芸能編』〕 0さらに、現在の公民館が新設されると、棒術は公民館前の広場で行い、舞台芸能は公民館内のホール舞台にて演じられている。
行事の目的・由来・伝承
- 行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
- ○豊年踊りが始まったのは、1887(明治20)年から1890(明治23)年頃と言い伝えられる。豊年踊りのほとんどはクガニヤマー(黄金山)こと玉城金三師匠(名護町大兼久在)による指導と伝えられ、今日の豊年踊りの基盤となっている。〔『名護市史 芸能編』〕
- 中断・再興の時期とその理由
- 豊年踊りは明治の終わりから1916(大正5)年にかけて中断した。その後、1917(大正6)年に再開された豊年踊りのほとんどは玉城金三による指導と言い伝えられる。〔『名護市史 芸能編』〕
- 武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
- ○大正時代から昭和初期の棒は三棒であった。その後六棒となり、昭和30年代には本部・今帰仁方面まで修業に行き、あるいは自己研修をしたりして、三尺棒等を増やし、現在の仲尾次棒は十三に増えた。戦前から戦後にかけ、棒は357番地の松田信秀宅の庭で練習していた。古老たちの話によると間切時代、この屋敷に掟らしき人が居住しその庭を利用していたが、その後この地に居住した松田鉄治(信秀の祖父)が棒に長じていたことから引き続き練習の場に供され、鉄次も自ら指導にあたっていたようである。昭和53年まで鉄次屋での練習は続けられた。棒方の最後の演技は鉄次屋の庭で行われるのが習わしであった。〔『仲尾次誌』〕
当該行事における意味
- 行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
- 『名護市史 芸能編』にもとくに記述はなく、聞き取りでもつまびらかでない。
組織・指導者・伝承方法
- 組織
- ○毎年、ソーニチ(旧暦九月九日)の一カ月前には「座員選定」を行い、組織を立ち上げる。座長及び三役は区民総会で承認され、座長、副座長を筆頭に、踊方、棒方、楽屋方、裏方、御願(道ジュネー)、受付、接待と細かく各係を決めている。〔『名護市史 芸能編』〕 ○2003年の豊年踊りに際しては、「豊年踊担当者会議組織表」が作成されており、それによると区長が豊年踊の代表(総責任者)で、その下に座長・副座長・踊方主任(=文化部長)・棒方主任などの役職が置かれ運営された。
- 組織の特化
- ■武術の部分に特化した組織がある(保存会設置 常設の保存会ではないが、豊年踊りにあたり棒方が組織化される。)
- 各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 2023年の豊年踊担当者会議組織表では、区長(新城氏)は豊年踊総責任者で、担当者会議の議長となる。座長(宮城氏)は踊方・棒方の総責任者で、担当者会議の副議長である。副座長(宮城氏)は座長の補佐となる。踊方主任(平良氏)は文化部長とも呼ばれ、地謡、踊り手、着付け、化粧・髪結、小道具などの仕立て、舞台運営・進行、音響・電気設備の各担当がいて、それらの調整と総括を行う。棒方主任(仲里氏)は棒方全般を総括する。これら以外に、祭祀御願行事、会計、書記、広報、受付、接待、案内、来賓対応、交通安全など細かく役割分担がなされている。
- 指導者の氏名(さかのぼるまで)
- ○棒の指導にあたったのは、松田鉄次、新里彦次郎、松田鉄治郎、松田初雄、玉城正一、平良健一、伊礼功、新里順次の諸氏である。〔『仲尾次誌』〕 ○なお、このうち玉城氏は、1947(昭和22)年から25年間棒に出演した。その後は指導者となり、1980(昭和55)年まで責任者を約10年務めた。2003年当時の指導者は島袋氏である。責任者は推薦で決められ、年齢も高めで、棒の上手な人が推薦される。 ○2023年の棒方指導者は、宮城氏、仲宗根氏、仲井間氏、島袋氏、宮城氏、仲村氏、新里氏の7名である。
- 出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
- 2023年の棒方は19名で、鉦・太鼓の3名を加えると、全員で22名が出演した。棒方は、年少は保育園の年長者や小学生2年生の計3名が参加し、上は40代の年長者までが参加した。今回は子ども達は親子出演で、仲里氏(親)/仲里(保育園生)、仲宗根氏(親)/仲宗根(子二人)の二組だった。
稽古の仕方、期間
- 稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 0練習を立ち上げる時期は、毎年旧暦8月20日頃に会議で決める。稽古は本番の20日前頃から公民館前の広場で行われる。〔『名護市史 芸能編』〕 02023年の豊年踊に向けては、新9月1日には出演への呼びかけを始めた。豊年踊りの担当者会議は9月22日に開催しスケジュールの確認をおこなっている。踊方は9月中旬から練習を始めており、10月になって全体練習もおこなった。 0棒方は2週間前から練習を始めた。
- 稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 練習は、戦前から戦後にかけては鉄次屋(松田信秀宅)の庭で行われていた。というのも、間切時代にこの屋敷に役人らしき人が居住し、その庭を利用したと伝えられる。その後も居住した松田鉄次(信秀の祖父)が棒に長じていたことから引き続き練習の場に供され、彼も自ら指導にあたっていたようである。1978(昭和53)年まで鉄次屋での練習は続けられた。〔『名護市史 芸能編』〕
演舞(武)構成
- 演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
- ○大正時代から昭和初期の棒は、「ミーボー(三棒)」という二人一組による演武の三番であったが、若者が増え、1960(昭和35)年には六棒(六演目)となる。その後、さらに三尺棒などを増やし、現在では十三棒(演目)となっている。とくに演目名はない。サイとヤイ(槍)は1960年ごろ山田区の宮里ヒロシ(空手家)から習ったという。本部町伊豆味、同瀬底、今帰仁村湧川など各地から移入したものであるが、多少型を変えている。〔『名護市史 芸能編』〕 ○豊年踊りは棒に始まり、間に舞台芸能をはさみ、最後は棒で終わる。棒はドラや太鼓、三線の音に合わせて、最初は出演者全員による「スーマキ」の演武がある。三尺棒を先頭にして、一列の隊列になり、「ヒョーイ、ユイ、ヒャー」のかけ声で互いに士気を盛り上げる。一列に並んだまま小走りで前進し、帰りは二列に隊列を変え、左右でスーマキを作り、二列になり、お互いにヤグイをかけながら、全体の演武がおこなわれる。次に、ドラ・太鼓・三線の「クーサンクー曲」に合わせて、15種類の棒の演武に移る。三尺棒、前棒、学校棒、伊豆味棒、四方切り、サイの手、槍、ミー棒、中棒、空手棒、オーエイ棒、湧川棒、古我知棒、三人棒、一人棒の演技が行われる。〔『仲尾次豊年踊120年祭記念誌』〕 ○棒の演武では太鼓と鉦をたたく役がいるが、かつては拍子木をたたく役もあった。
衣装・道具
- 衣裳・道具の名称と着方
- 衣装は、以前はランニング姿に鉢巻、白ズボンであったが、最近はボーギ(棒着)と呼ぶ空手着を着ておもなっている。道具は、六尺棒、三尺棒、サイ、ヤイ(槍)などがある。〔『名護市史 芸能編』〕
- 衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
- 衣装や道具・楽器は公民館に保管されていて、区長が管理している。
- 衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
- 棒方に新しく演技者が入ると、空手着など一式をスポーツ店などから購入して、区費で支給している。
- 棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
- (区長らでは詳しくわからないようなので、棒方関係者への聞き取りが必要と思われる。)
音楽
- 楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
- 楽器はドラ鉦、太鼓、三線で、戦前から変わらない。ホラ貝は使用しない。〔『名護市史 芸能編』〕
- 楽曲(戦前、戦後の変化)
- 音楽は「ティーサンクー」(クーサンクーか?)の曲である。〔『名護市史 芸能編』〕
課題
- 支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
- 豊年踊の経費は区民からの寄付でまかなってきているが、以前よりは寄付が少なくなっているので、例えば不足分が20万円出たりすると、その分は区費から補填するなど予算面で苦労することがある。
- コロナで影響を受けたこと
- 新型コロナウィルスの影響により、2023年は4年ぶりの開催となり、中断期間が長くなったことで、演者を集めるのが難しくなってきていてた。演者が中心となる文化部では、若い人たちからは本番が平日に重なると仕事の都合で参加できないとか、体力的に厳しいという意見もあがっていたという。長年続いた行事を存続させるため、区民の意見を聞きながら決定された。
記録
- 文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
- ■文献 名護市史編さん委員会編 『名護市史 本編8 芸能編』名護市 2003年〔頁~394頁〕/『仲尾次誌』1989年/『仲尾次豊年踊100年祭記念誌』1991年/『仲尾次豊年踊120年祭記念誌』2011年 ■映像記録 近年は毎年ビデオ録画を行っている。2023年についても業者による映像記録撮影が行われていた。 ■プログラムや式次第 平成2年度以降のプログラムが記録として残されており、他にもさらに古いプログラムが残っている可能性がある(再調査要)。


