調査票結果
- 地元での呼び方
- ボウホウ(ムラシバイの中で演じられる)
武術的身体表現の形態
- 武術的身体操作・表現の分類
時期・場所
- 行事が行われる期日(旧暦)
- 8月8日(平成16年当時は9月23日(秋分の日)に開催) 8月7日(前仕込み)、8月8日(正日)、週末や祝日、休日に変更あり。 3年マールで行う(1970年頃より)
- 上演の場所
- ・1976年までは公民館で行い、その後区民広場造成に伴い広場で行う。
行事の目的・由来・伝承
- 行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
- 古我知棒は、大堂(アップドー)の武士仲村プップの影響が大きく、迫力のある棒術で評判が高く、好評を博している(『古我知誌』 より)
- 中断・再興の時期とその理由
- ・1904~1905 日露戦争の終結後の不況下で中断→ 松川源傑「古我知手さぐり記」によると、古我知は神のお告げ、ある老人にあって「昔のように踊りや棒を盛んにして、神のおもてなしをしないと、我が古我知は繁栄しませんよ。村中の人が心を心を合せて気張りなさい與。これは神のお告げだよ」との話があり、村ではお告げが話題となり、戸主会(ユレー)を開き踊りの再開を満場一致で賛成決議した。羽地村で一番早く復活したようである。 ・1944~1945 第二次世界大戦中→ 1946年終戦直後、生活が非常に苦しい時期であったが、松川源傑の計らいと全字民の賛同と協力によって復活、その後ハワイ、アメリカ在住の字出身者から踊り衣装類が贈られ、1947年からは字民総参加で戦前以上の踊りとなった。 ・1957~1964 農家のパイン造りが盛んになり、パインの収穫と踊りの時期がかちあったため、毎年の実施を中止。→1965年毎年実施ことになったが、農業の多様化で農家は益々忙しくなった。若い青年層が少なくなったんどの理由で、豊年踊りは毎年実施することが不可能となったため、3年に一回、字を挙げて盛大に行われるようになった。
- 武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
- 演目の中に、クーサンクーの呼称がある。
当該行事における意味
- 行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
- プログラムの最初と最後の2回実施。
組織・指導者・伝承方法
- 組織
- 区長のもとに4人の責任者あり(地謡責任者、座長責任者、棒方責任者、 会計責任者) 従来、村踊りの出演者は総て、男性だけであったが、1941年羽地村内で古我知は初めて4名の女子青年が村踊りに出演して、その後から女子青年の出演者が毎年増えた。棒は男子のみか。
- 指導者の氏名(さかのぼるまで)
- 玉城氏、古我氏、高嶺氏、新城氏(「平成16年度棒方の参加者名簿」
- 出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
- 棒方の前に、中学生(男子)による空手の演舞を行い、棒方は、高校生、青年、壮年も混ざって行う。
演舞(武)構成
- 演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
- 一番棒(2人) 二番棒(2人) 三番棒(2人) 上払い(2人) チッタッチャ(2人) イサ棒(2人) 二段切り(2人) 四方切り(2人) マルヌキ(2人) ウラースグイ(2人) クーサンク(2人)
衣装・道具
- 衣裳・道具の名称と着方
- 空手着
- 衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
- 公民館(区長)
音楽
- 楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
- 三線、太鼓、ドラ鐘(カニ)各1人
記録
- 文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
- ■文献 『名護市史研究資料第92集 芸能調査資料6 羽地地区の芸能・2』 272-274、284-285p.p.(名護市教育委員会文化課市史編さん係2007)


