調査票結果

年中行事名
宜野座の八月あしび
市町村名
宜野座村
行政区
宜野座区
小字名
字宜野座
地元での呼び方
旧暦8月15日頃に催される豊年祭ついて、宜野座区では「宜野座の八月あしび」と呼ばれている

武術的身体表現の形態

武術的身体操作・表現の形態
宜野座の八月あしびに伴う武術的操作・表現としては、宜野座ヌンドゥルチ(ノロ殿内)・大川按司の屋敷跡・根屋の拝所で奉納される舞踊の中に「棒(6尺2人棒)」がある。その後、道ズネーを経て舞台芸能の会場である「平松毛」にて、再び「棒」が演じられる。八月あしびの舞台芸能の演目としては、「獅子舞」で舞方が「クーサンンクー」の音曲で登場して舞台の座を清める。また、舞踊では空手の技法を取り入れた「前之浜」、組踊『伏山敵討』に武術的身体操作・表現がある。
武術的身体操作・表現の分類
■型の演武(舞)がある ■芝居の中で武術的所作が演じられる ■獅子に対峙しての武術がある

時期・場所

行事が行われる期日(旧暦)
宜野座の八月あしびは、宜野座区の青年会と成人会が組織する「二才団」が中心となって、旧暦8月15日頃に開催される。コロナ禍の影響により、令和4年の宜野座の八月あしび中止となったが、9月24日、宜野座ヌンドゥルチ(ノロ殿内)の拝所で豊年祭の再開を祈願する「旗頭奉納」が催されている。
上演の場所
宜野座の八月あしびは、宜野座ヌンドゥルチ(ノロ殿内)・大川按司の屋敷跡・根屋の拝所での御願に始まり、字宜野座の集落内を巡る道ズネーを経て、「平松毛(ヒラマチモー)」と呼ばれるアシビナーに設置された「仮設舞台(バンク)」で上演される。

行事の目的・由来・伝承

行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
宜野座の八月あしびは、いつの頃から始まったのか詳細は不明だが、琉球王府時代から番所の筆者・その子弟の一部・選ばれたシンカ・士族によって五穀豊穣を祈願するアシビが催されていたようであり、明治の頃になると、首里・那覇・泊から寄留した士族が伝えた芸能(御冠船踊・寒川芝居等)や御座楽の演奏技術、沖縄戦時の1945年(昭和20)では、米軍の民間人収容地にいた県内各地の芸達者の影響を受けて、現在の形になったと云われている。
中断・再興の時期とその理由
明治の後期から大正の初期の頃、宜野座の八月あしびは、主に日露戦争時の経済的負担の大きさ等の理由により、10年ほど中断されていたが、1917年(大正6)には復活している。また、第2次世界大戦中も3~4年ほど中断されていたが、その後、再開している。近年では、コロナ禍の影響を受けて中止となっているが、宜野座区内で八月あしびの再開を祈願した「旗頭奉納」が催され、復活への兆しが見受けられる。
武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
宜野座の八月あしびで演じられる棒・獅子舞・前之浜・組踊『伏山敵討』などの武術的身体表現は、先代の演者が師匠となり、次世代の演者に伝承されている。

当該行事における意味

行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
宜野座の八月あしびの中でも冒頭の演目である「獅子舞」については、舞方が座を清めた後、獅子に化身した神をバンク(仮設舞台)に招き入れる事で、あしびが始まるという意味がある。

組織・指導者・伝承方法

組織
宜野座区の15~49歳の青年会・成人会の男性で組織される「二才団」が中心となり、地域の老若男女が協力・参加して宜野座の八月あしびは催される。
組織の特化
■武術の部分は専門の師匠がいる
各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
二才団が組織されたのは、1896年(明治29)の八月あしびからで、士族・平民の区別なく、当時は15歳から42歳までの男性で構成されていた。その後、15歳から45歳までの男性となり、現在は15歳から49歳の男性で構成されている。沖縄戦前は、二才団ズリー(総会)で二才頭、年長者の頭、年少者の頭、帳筆者、舞踊・組踊・劇・棒の頭を決めていたが、現在は団員の推薦で二才団団長・副団長・会計を決め、組踊・舞踊・劇・棒・救護の部長が二才団長の指名によって決められる。
指導者の氏名(さかのぼるまで)
二才団より認定された師匠 ※師匠の指名等の詳細は要調査。なお、毎回、地謡や組踊・舞踊・劇・棒など各部の指導者が変わっていく為、多人数となる。
出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
二才団員の中から各演目の配役を決める。かつて演技種目は一人一役を原則としていたが、現在は一人で2~3演目まで兼ねる事が許されている。なお、役の変更も二才団の役員の承認を必要とする。

稽古の仕方、期間

稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
二才団より認定された師匠の厳しい指導の下、半月ほどの短期間の稽古で与えられた配役を習得する。配役について脱落は許されず、私生活を犠牲にしても八月あしびを成功させなければならないとされ、その精神は現在も受け継がれている感がある。
稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
かつて、組踊は「大川按司の屋敷跡」、舞踊は「ヌンドゥルチ(ノロ殿内)」、狂言(劇)は「伊敷(旧家跡)」で稽古が行われていたが、現在は全ての稽古が宜野座区の公民館で行われている。

演舞(武)構成

演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
棒(小学4年生以上の男子は6尺2人棒×15組、中学生の男子は6尺2人棒×9組と三尺・槍×2組)、獅子舞(舞方×1名、獅子1頭×2名)、前之浜(2名で踊る「前之浜節」「坂原口節」「与那原節」の3曲で構成された舞踊)、組踊『伏山敵討』(登場人物は天願の按司・棚原の若按司・母親・亀千代・富盛大主・平安座大主・石川の比屋・狩人)で各芸能は構成されている。
集落以外での披露の有無
■集落以外(市町村内)で演武(舞)したことがある ■公民館やホールなど(市町村外)で演武(舞)したことがある 

衣装・道具

衣裳・道具の名称と着方
棒(棒・白ズボン・白長袖シャツ・ズック靴) 獅子舞(獅子頭、舞方は白ズボン・白シャツ・引羽織・橙色地金襴広帯・紫長巾腰帯・頭に紫長巾・白黒縦縞脚絆に白足袋) 前之浜(黒地紋付袷衣裳・紺地金色笹模様広帯・紫長巾腰帯・白巾の請鉢巻・白黒縦縞脚絆・白足袋) 組踊『伏山敵討』(天願の按司:紺地袴・紺陣羽織・黒入道頭巾・紫長巾腰帯・金色脚絆・黒足袋・大団扇・弓矢、 棚原の若按司:緋振袖袷衣裳・引羽織・白地帯・頭に紫長巾両結び・向立・白脚絆・白足袋・編笠・杖・金襴陣羽織・紫袴・紫長巾腰帯・紫地袴・赤味に黄色地の脚絆・白足袋・手甲・長刀 母親:金襴打掛袷衣裳・中衣・紫長巾腰帯・頭に紫長巾・白足袋、亀千代:緋振袖単衣衣裳・緑地の引羽織・紫長巾腰帯・白足袋 富森大主:黒地紋付袷衣裳・黒入道頭巾(鏡付き)・黒地羽織・紺地金色笹模様広帯・紫長巾腰帯・白黒縦縞脚絆・黒足袋・編笠・杖・黒下袴・黒地袷衣裳・黒脚絆・黒細帯(裏地は黄色) 平安座大主・石川の比屋:黒地単衣衣裳・黄色地帯・紫長巾腰帯・黒入道頭巾(鏡付)・白黒縦縞脚絆・黒足袋・槍 狩人:芭蕉布衣裳・藁縄帯・藁縄鉢巻・棒と猪
衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
現在、獅子頭は根屋の拝所の隣接する獅子安置小屋、その他の衣裳や道具は宜野座区の公民館に保管されている。
衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
衣裳や道具の製作や修繕は、宜野座区で器用な方にお願いする。購入の経費は区で予算が計上され、区が執行する。
棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
 ※用具の材質について詳細は不明、要調査。また、各演目によって用具は多種多様にある。

音楽

楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
棒(銅鑼)、獅子舞(三線・太鼓・鉦・ホラ貝・ピーラルラ)、前之浜(三線・箏・太鼓)、組踊『伏山敵討』(三線・箏・太鼓)
楽曲(戦前、戦後の変化)
獅子舞(舞方は「笠の段」、獅子舞は「かぎやで風節」)、前之浜(前之浜)、組踊『伏山敵討』(口説・すき節・仲間節・伊野波節・東江節・七尺節・長金武節・揚作田節・よしやいなう節・按司手事・大主手事・若按司手事・瀧落し)

課題

支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
地謡の担い手の育成が課題である。
コロナで影響を受けたこと
コロナ禍の影響で八月あしびの開催ができない為、地域の意識の後退と稽古不足による技量の低下が懸念される。

記録

文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
■文献 ■映像記録  ■プログラムや式次第