調査票結果

年中行事名
■その他(安里八幡宮例祭・安里金満宮例祭(フェーヌシマ))
市町村名
那覇市
行政区
安里
小字名
安里(アサトゥ)
地元での呼び方
フェーヌシマー

武術的身体表現の形態

武術的身体操作・表現の形態
フェーヌシマ芸能 祈願のあとに演じられる。棒術、ヒュータン踊り、サールー・ゲーイの三つが揃っている。
武術的身体操作・表現の分類
■型の演武(舞)がある ■対面での打ち合い等がある ■その他(サールー・ゲーイ(トンボ返り)がある)

時期・場所

行事が行われる期日(旧暦)
旧4月15日(金満宮例祭)※アブシバレーの日 旧9月9日(八幡宮例祭)  現在は旧暦の祭日の次の日曜日に開催。
上演の場所
金満宮例祭:安里会館の舞台(少人数で行う) 八幡宮例祭:社の前の庭(踊り16名、ドラ1名、小旗1名の計18名)

行事の目的・由来・伝承

行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
15世紀のはじめごろ、南方貿易の拠点だった読谷村長浜から安里に伝わってきた。 戦前は大正天皇の祝賀行事に伴い、安里八幡宮で上演された。
中断・再興の時期とその理由
戦後しばらく途絶えていたが、昭和37年、戦前の伝承者だった玉井亀吉氏、新垣正達氏が中心になって復活させた。琉球民政府創立十周年記念の公演で沖縄タイムスホールで上演された。その後、昭和45年、安里クラブ建て替えの時に衣装や道具が紛失したため、しばらく上演が途絶えていた。平成4年、首里城復元を契機に、衣裳や道具を新調して復活がなされ、首里城の復興祭に出演した。
武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
入場時に小旗を振ったり、棒を回すのは、観客を後退させて棒が当たらないように注意するため(会場整理のため)。 カン打ち:棒同士を打ち合わせること。どちらかかが防御できないと体に当たって怪我をしてしまう。 カン打ちは、相手の後頭部や膝、脛を目がけて打ち合う。 真上に向かって突くのは、上にも敵がいるという意味で突く。 ハウという掛け声は、気合いを入れる声「ハ」を大げさにやると、「ハウ」になる。 手を額のあたりにかざして走るのは、太陽の光をさえぎるため。

当該行事における意味

行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
例祭で神社への奉納の意味で演じられている。

組織・指導者・伝承方法

組織
安里南之島保存会の会員によって伝承されている。復活した平成4年から平成8年までは玉井氏(空手の師匠)、平成8年以降はほぼ玉城氏が会長をつとめている。催事ごとに出演できるメンバーを募り、その日程に都合のつく際はオファーを引き受けている。
組織の特化
■武術の部分に特化した組織がある
指導者の氏名(さかのぼるまで)
先達:玉井亀吉(明治38年生)、新垣正達(大正8年生)、金城武男(大正9年生) 現在の伝承者:儀間氏(昭和13年生)、玉井氏(昭和22年生)、玉城氏(昭和27年生)
出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
現在、年齢層は88歳から10代の高校生まで参加している。主に30代半ばが多い。10代、20代のメンバーは高校生2人をのぞいてほとんどいない。 戦前・戦後は男性だけだったが、復活後は女性も加わったことがある。ただ、男性とは体力が違うので、出演できるまで習得できずやめてしまった。現在は安里に住んでいない人(保存会メンバーの親戚など)もメンバーに加えて教えている。 安里会館だけでなく、近隣の学校(興南高校、真和志小学校、泊中学校、壺屋小学校など)に教えに行ったこともある。運動会などで披露された。

稽古の仕方、期間

稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
平成8年の復活後は、週3回(火・木・土)で、安里会館を利用している空手教室(玉井栄良氏の道場)の利用後(午後8時~)にやって、空手教室の子供たちも一緒にやっていた。近年は空手教室とはずらして月・水曜日の週2回フェーヌシマをやり、金曜日に同じメンバーでエイサーをやっている。
稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
戦後は安里クラブの庭で稽古していた。サールーゲーイの稽古も、小石まじりの土の庭の上でやった。現在は安里会館(安里クラブと同じ場所)のホールで稽古している。サールーゲーイの時はマットを敷いて、安全に配慮している。

演舞(武)構成

演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
棒術 ヒュータン(瓢箪)踊り サールーゲーイ(猿返り)
集落以外での披露の有無
■公民館やホールなど(市町村外)で演武(舞)したことがある(名護市のフェーヌシマ大会、国立劇場おきなわこけら落とし公演、那覇市青年祭、那覇市民会館でのTSUNAGU公演、那覇市民伝統芸能パレード、鹿児島県の地域の祭りなど)

衣装・道具

衣裳・道具の名称と着方
踊り手:赤ガンター(麻。戦前は芭蕉)、左巴紋の白鉢巻、黒の腹がけ(むねあて)、黒の筒袖(上着)、白たすき、七色帯(前タレ)、白股引、脚絆、わらじ 旗持ち・鉦打ち:紫のマンサージ 小道具:鉄輪(ししおどし)の付いた四尺棒、瓢箪 その他:旗(「南の島保存会/安里南の島棒」)
衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
衣裳や道具は安里会館で保管している。 黒の腹がけ:調達が難しいので黒いTシャツになった。 白股引:戦後、体育の白ズボンを使ったが、破れたりするので、現在は空手ズボン。 わらじ:アスファルトの上だと痛みを伴い、すり切れるので、地下足袋に変更。 瓢箪:戦後は木製だったが、現在は本物の瓢箪を乾燥させて使っている。本物の方が軽くてよい。
衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
修繕などはすべて自前でやっている。また、売っている店もないので、ほとんど自分たちで用意する。近年は玉城氏一人で担っている。 棒は山から許可を得て伐採し、乾燥させて使用している。
棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
戦後は空手で使う棒を使用していたが、折れる(折れて頭を3針縫った人もいた)ので、現在は山からアリク(アデク)という木を伐って使用している。

音楽

楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
銅鑼鉦(ムラガニ) 法螺(ブラ)(入場時だけ使用)
楽曲(戦前、戦後の変化)
ヒュータン踊りの歌 戦後は新垣氏だけが覚えていたので、新垣氏の歌をもとに復活させた。

課題

支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
後継者が不足している。今、30代のメンバーが多いが、家庭を持って仕事や子育てで忙しいので、なかなか出演や練習ができない。出演依頼がきた際にはメンバーに都合を確認して、人数が揃えば引き受ける形を取っている。 安里出身者の子どもたちは浦添市などに移り住んでいるので、地域とは疎遠になり、若い後継者がなかなかいない。
コロナで影響を受けたこと
コロナで練習も、例祭での上演もすべてできなくなった。 例祭は役員だけで祈願を行っている。

記録

文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
■文献 ■映像記録(舞台公演) 那覇市教育委員会『那覇市文化財調査報告第1集 那覇安里のフェーヌシマ』 安里誌刊行会『那覇市安里誌』 代表的な映像:国立劇場おきなわ主催 第8回民俗芸能公演「那覇・浦添民俗芸能歳時記」平成20年2月9日(この時の公演が人数も揃って万全な態勢で出演できた)