調査票結果

年中行事名
■その他(嘉数の棒)
市町村名
豊見城市
行政区
嘉数
小字名
カカジ
地元での呼び方
・民俗行事に伴う武術的身体表現ではないと思われるが、字豊見城の「ハーリー由来まつり」という拝み行事などで演舞が行われたこともある。

武術的身体表現の形態

武術的身体操作・表現の形態
・「嘉数棒」や「嘉数の棒」と呼ばれる。
武術的身体操作・表現の分類
■対面での打ち合い等がある

時期・場所

行事が行われる期日(旧暦)
・なし
上演の場所
・不明

行事の目的・由来・伝承

行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
・なし
中断・再興の時期とその理由
・後継者が少なくなったが、琉球古武道保存振興会2代目会長・赤嶺栄亮(1926~99)が、4つの型それぞれの指導を受け会得し、3代目会長の赤嶺浩(1954~)が受け継ぎ、字根差部の信武舘道場で指導している。
武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
・唐手佐久川(別名:棒の佐久川)として名高い武士、佐久川親雲上(1762~1843)が源流とされ、継承者は棒術の名人と呼ばれた知念三良(1840~1922)であった。
・1922(大正11)年頃、知念三良が嘉数の青年たちに棒術を伝授するようになったのが、嘉数が「棒の国」といわれるようになった始まりとされる。

当該行事における意味

行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
・なし

組織・指導者・伝承方法

組織
・知念三良に師事したのが、比嘉成一郎(1890~1991)、比嘉来助(1904~89)、赤嶺要平(1906~87)、比嘉仁三郎(1900~81)で、それぞれ佐久川の棍、周氏の棍、米川の棍、白樽の棍として今に伝わる。
・指導を受けた4氏は、嘉数の若者たちに指導を行った。あまりにも激しい稽古の様子から、近隣の集落の人々からいつしか「嘉数棒」と恐れられた。
・現在は、字根差部の信武舘道場で、指導が行われている。
組織の特化
■武術の部分は専門の師匠がいる
各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
・稽古が厳しすぎる嘉数棒は、次第に後を継ぐ者が少なくなっていったが、琉球古武道保存振興会2代目会長・赤嶺栄亮(1926~99)が、4つの型それぞれの指導を受け会得した。その後、息子で3代目会長の赤嶺氏(1954~)が受け継ぎ、字根差部の信武舘道場で指導する傍ら、4つの型を「山根流の棒」として門下生に伝授している。
指導者の氏名(さかのぼるまで)
・佐久川寛賀(1762~1843)、知念三良(1840~1922)、比嘉成一郎(1890~1991)、比嘉来助(1904~89)、赤嶺要平(1906~87)、比嘉仁三郎(1900~81)、琉球古武道振興会2代目会長の赤嶺栄亮(1926~99)、3代目会長の赤嶺氏
出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
・不明

稽古の仕方、期間

稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
・不明
稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
・御願所(拝所)前の広場

演舞(武)構成

演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
・不明
集落以外での披露の有無
■集落以外(市町村内)で演武したことがある(字豊見城の「ハーリー由来まつり」)
■その他(1921年、祐仁皇太子(昭和天皇)の歓迎の宴にて、首里城正殿前の御庭で演舞を行ったとされる。)

衣装・道具

衣裳・道具の名称と着方
・不明
衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
・不明
衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
・専属の大工2人がかりで作っていたが、間に合わせきれないほどだったという。
棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
・非常に堅い「クルチ」(黒木)や「樫の木」を6尺や9尺の長さにして使用した。

音楽

楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
・不明
楽曲(戦前、戦後の変化)
・不明

課題

支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
・不明
コロナで影響を受けたこと
・不明

記録

文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
■文献

■その他
・『豊見城市史 第二巻 民俗編』(豊見城市史編集委員会編/平成20(2008)年3月)656p.
・『豊見城市 嘉数字誌』(嘉数字誌編集委員会/平成27(2015)年7月)162-165p.p.