調査票結果

年中行事名
■豊年祭
市町村名
豊見城市
行政区
字保栄茂
小字名
(ビン)
地元での呼び方
十五夜(ジューグヤー)、豊年祭ともいう。 6年に一度(卯年・酉年)は「アタイドゥシ」として盛大に行う。これは龕のお祭りを行ない、村民の無病息災を願う「ニンマール」と密接に関わっている。かつては「ニンマール」にあわせ龕の修繕なども行なっていた。 卯年を「ウフドゥシ」、酉年を「ナカドゥシ」と称する。盛大に十五夜を行う卯年・酉年には、棒の集団演技「巻ち棒」が行なわれる

武術的身体表現の形態

武術的身体操作・表現の形態
奉納舞踊としての棒術、サイ術 棒の集団演技「巻ち棒」、「巻ち棒」の中に構成される組棒(「ヒチザンシー」と総称される)
武術的身体操作・表現の分類
■対面での打ち合い等がある ■その他(一定の年齢層の男性たちが集団演技する「巻ち棒」がある

時期・場所

行事が行われる期日(旧暦)
旧暦8月15日。 前回の2017年(酉年)の場合は、職業や学業の多様化から参加者が集まりやすい旧8月15日直近にあたる10月8日(旧暦8月19日)の日曜日に十五夜が行われた。 (10月5日(旧暦8月15日)の水曜日には、自治会長らが拝みをたてた)
上演の場所
保栄茂の馬場

行事の目的・由来・伝承

行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
十五夜(豊年祭)に関しては五穀豊穣を祈願する意味合いがある。 「ニンマール」の年は無病息災を祈願する意味合いも含まれることから、卯年と酉年の十五夜には「五穀豊穣」「地域住民の無病息災」の願いが込められている、とされる。 「巻ち棒」がなぜ行われるようになったのかなどの由来、伝承ははっきりと伝わっていない。地元では200年あまりの歴史はあると伝わる。
中断・再興の時期とその理由
保栄茂の「巻ち棒」が現在の形になったのは、大正期であるといわれている。 大正期以前に何らかの事情で一時途絶えた時期があって、当時の有志らが復活させた形が現在も行われている「巻ち棒」の型であるという。 「沖縄タイムス1975年9月23日」7面に、保栄茂の「巻ち棒」に関する記事があり、その中で当間邦■(当時80歳)さんの話が取り上げられている。「(当間さんが)29歳の時に「巻ち棒」の第1回委員長を務め、その時「巻ち棒」の形が変わった」という記事が確認できる。 戦争の時代も一時中断を余儀なくされたが、1951年(卯年)に再び演じられるようになった。この時は、保栄茂出身のハワイ移民などの寄附や物資援助などで復興を果たしている。 2023(令和5)年は卯年にあたるが、新型コロナウィルス感染症に関連して、「長期にわたり集団での練習が必要であり、集団感染の危険性を否定できない」という理由から「巻ち棒」を中止した
武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
保栄茂の「巻ち棒」に関する由来ははっきりと伝わっていない。 関連する民話、伝承なども確認できない。 ※隣字の翁長では、確定とまでは行かないまでも、巻ち棒の伝承に関する伝え話が残っている。

当該行事における意味

行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
「巻ち棒」は卯年・酉年の十五夜の中で、注目を集めるプログラムであり、保栄茂のある一定の年齢以上の男性たちが参加して行う。 戦前に行われていた「巻ち棒」に関する情報は多くなく、大正期に現在のスタイルとなったこと以外は調査できなかった。 卯年・酉年の十五夜において、実行委員会は小冊子を発行しているが、今回の調査の範囲で確認できた中で、最も古い1975年発行冊子から続けて使用されているフレーズに「協調と融和の精神」というものがある。 同じ衣装に身を包み多人数で行われる集団演技で十五夜の行事を盛り上げると同時に、複雑な動きが多く、一人でも呼吸や調子を乱してしまうとうまくいかないと言われるほどで、「協調と融和の精神がなければ成立しないもの」と表現されている。 盛大に行われる年の目玉でもあり、保栄茂の男性たちの協調融和の精神を大事にする教訓として機能してきたと思われる。

組織・指導者・伝承方法

組織
現在は、十五夜に合わせて実行委員会を結成し開催する。委員会の名称は「十五夜実行委員会」「大豊年祭実行委員会」「豊年祭実行委員会」など、開催年によって変わる。
各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
委員会を結成するようになったのは1975年(卯年)の十五夜からである。その理由として、「ふるさとの心を子孫に伝える」ことを目標にしたことがあげられる。多くの住民が実行委員会に加わって開催した。 この委員会で取り仕切るスタイルが今日まで続いている(それまでは字の役員が取り仕切る形だった)。 直近に行われた2017年(酉年)では、「総務」をはじめ、行事に必要な「芸能」「巻ち棒」「ミルク節」「旗頭」といった各委員会を設置し、芸能や「巻ち棒」などの指導にあたった。 指導者数は「芸能」4人、「巻ち棒」25人、「ミルク節」10人、「旗頭」2人となっていた。必然的に参加経験者による指導が必要となってくる「巻ち棒」指導を務める者は、職業や伝統文化への価値観の多様化による練習日の増加などから、「巻ち棒」の回を数えるごとに増加傾向にあった。しかし2017年には減少に転じている(2011年は資料がないため確認できていない)。
指導者の氏名(さかのぼるまで)
別添Excelデータ【保栄茂の「巻ち棒」指導者一覧】参照
出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
「巻ち棒」への参加資格について、参考になる資料として『豊高郷土史第3号1970年11月』の中に「参加資格は、前は13歳から50歳までの男性」だったことが記されている。これが戦前期も含むのかは不明。 資料として残っているものでは1969年卯年の「中学1年生から55歳までの男性」が最古の記述と思われる。 その後の1975年、1981年、1987年、1993年、1999年までは参加資格は中学1年生以上となっていた。 上限は年度によって変動が見られ、1975年は55歳まで、1981年は58歳まで、1987年は55歳まで、1993年は58歳まで、1999年は59歳までとなっていた。 参加資格の最低年齢が引き下げられたのは2005年(酉年)からで、この年は「小学5年生以上」に参加資格が与えられた。この時の年齢引き下げについて、2005年の記録映像では「保栄茂の巻ち棒をさらに盛り上げていきたいと考えたため」であるとしている。 この年以降の2011年(卯年)、2017年(酉年)の巻ち棒では、小学校高学年~60歳くらいの男性が参加資格となっている。 2023年の巻ち棒が中止となったため、今後も参加資格の年齢制限は変動が見られる可能性もある。

稽古の仕方、期間

稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
戦前の「巻ち棒」稽古スケジュールに関する情報は得られなかった。 現在では3か月余り練習期間にあてるとされる。 職業や伝統行事に関する価値観の多様化から、練習頻度や参加人数の変化も大きく関わっていると見られる。 1975年(卯年)9月6日発行の「琉球新報」朝刊10面に、「棒踊りに猛練習 豊見城村保栄茂 6年ぶり豊年祭控え」の記事がある。 記事では8月末頃から、毎週日曜日夕方から練習を行っていることが報じられており、練習参加者は150人余りとなっている。新聞記事のため正確性が十分とはいえないものの、この頃は1か月ほどが練習期間だったと考えられる。 少し時代をあけて2005年の記録映像では「2カ月間ほど練習する」旨が述べられており、年が進むにつれ、練習時間が長くなっている印象がある。
稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
保栄茂の馬場 保栄茂の馬場が整備されたのは1877(明治10)年だと言われている。以降、保栄茂の十五夜の主会場となってきたと考えられる。

演舞(武)構成

演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
直近の2017(酉年)の「巻ち棒」では、タンカー棒→巻ち棒の流れで行われた。 タンカー棒は1年少順に一列に並んで棒を構え、馬場の西側からゆっくり入場する。 2ヘーイ棒の鎗と長刀(ウー棒、ミー棒)にわかれて行き、再び楕円形の態勢を取る。 3タンカー棒(組棒)と演武は、2~5人で演じる。この時演じられるのは、三人棒、五人棒、ダンヌグサン(段の棒)、棒とサイ、ティンベーなどと続き、最後は鑓や長刀などで締められる。演じ終わると出てきた所とは班隊列の方へ帰り、自分の組の後ろに並ぶ。(記録映像が撮影された2005(酉年)の十五夜でも一連のタンカー棒が紹介されている。 2005年の場合は、1鑓(エイ)と長刀(ナジナタ)、2ダンヌグサンの集団演武、3タンカー棒、4三人棒、5棒とサイ、6一人で行うダンヌグサン、7ティンベー(鑓との組手)、8一人で行うサイ、9五人棒の順で行われた。 ※2005年の記録映像の中で、五人棒について「非常に珍しい型で保栄茂にしかないもの」とアナウンスしている一幕がある。正誤ふくめて詳細は未調査だが、それが事実であれば非常に興味深い。 タンカー棒が終わると、ウー棒・ミー棒とも足早で一列になって楕円形を崩し、両方に分かれてそれぞれの組が時計・反時計に巻き込んでいく。しばらくして、ミー棒の渦巻が解かれてウー棒の渦の中に引き込まれて行き一つの渦巻になる。 大きな渦巻になった巻が「エイ!」という掛け声とともに渦巻が解かれて行き、もう一度楕円を描いて西側に退場する。
集落以外での披露の有無
■その他(保栄茂の男性たちの演技ではないが、2003(平成15)年に十五夜遊びの文化伝承を目的に行われた豊見城市教育委員会主催のイベントで、当時市内中学生による「巻ち棒」が行われた。この時演じられた型は、保栄茂の「巻ち棒」のものだった)

衣装・道具

衣裳・道具の名称と着方
「巻ち棒」に参加する全員が、同様のカンジムイ(頭巾)、ハウイ(羽織)、キャハン(脚絆)に身を包み行う 陣羽織を白襦袢の上につけて帯を締める。頭には紫色などの頭巾をかぶり、白ズボンの上から脚絆を巻く。
衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
1970年に豊見城高等学校郷土研究会が「巻ち棒」を調査した際の聞き取り調査において、「衣装は昔からずっと同じ衣装で…」とあるので、材質等の違いはあるだろうがほぼ同じ形で受け継がれてきたものとおもわれる。沖縄戦のなかでこういった戦前の衣装の多くが焼け落ち、戦後最初の十五夜は、当時ハワイやブラジルに住んでいた保栄茂出身者の寄贈などが充てられた。現在でも、道ジュネーなどの装束の一部にハワイやブラジルから贈られた生地の一部が用いられているものがある。 衣装類は現在、農業改善センターなどに保管されている。一部、海外から贈られた生地などを用いた衣装に関しては、豊見城市教育委員会文化課が寄託を受ける形で収蔵庫保管している。
衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
個々人で保管、あるいは必要に応じて自治会経費で賄われている
棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
六尺棒は自身で作ることが多い。材質は樫の木を用いるが、樫の木が少なくなった時期などはラワン材を用いることもあったという。木材は市販されているものを用いる。 かつては、樫の木を鉋で粗削りをした後、ガラス瓶の破片などを用いてより滑らかになるように削り取った。 最近は、機械で加工することもある。

音楽

楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
三線、銅鑼、ボラ(ブラ)、小鼓、拍子木、太鼓、ラッパ(のような吹奏楽器)など。 「巻ち棒」における演武で用いられるのは銅鑼やボラなどがメインだが、コーヌユエーなどで長刀奉納演武の際には三線が奏でられる。
楽曲(戦前、戦後の変化)
2005(酉年)年の十五夜は、映像記録としてDVDとなっている。こちらの映像記録の中には、巻ち棒に入る前の出し物(余興)として長者の大主(老人踊り)、四季口節、コティ節、笠小、大笠、めでたい節、稲摺(ンニシリ)節、山原女、国頭サバクイ、ミルク節などが演じられた(ほか、みーみんめー、卵とハンダマーなど幼児が出演するものもある。これらは年によって演目が変わるようである) 余興の中には、長刀、サイ、ダンヌグサン(棒術)なども含まれる。これらは、龕への奉納演武とほぼ同じ形で披露される。 長刀の演武などには揚竹田節などが演奏される。 また、「ミルク節」ついては、巻ち棒と同じくアタイドゥシの時にのみ演じられる。 楽曲の変遷などについては調査できなかった。

課題

支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
保栄茂の巻ち棒と同様、アタイドゥシである卯年・酉年にのみ演じられる「ミルク節」は、平成30年度に「第6回特選沖縄の伝統芸能」(沖縄県・沖縄県文化協会主催)において公演を果たしている。この中で、「少子高齢化により子ども会やOB会組織の活動が極端に縮小してきている。都市化により旧農村集落が崩れ、アパートやマンションが増加してきたうえ、自治会加入率の低下が顕著になっている」とコメントしており、これは巻ち棒を含む保栄茂の十五夜行事全体にいえる課題と思われる。
コロナで影響を受けたこと
巻ち棒の複雑な集団演技は、最低でも3カ月以上の練習が必要になるとされ、密集する空間(ウー棒とミー棒、2つが合流する時に巻ちを形作られるが、非常に密集した形となる)となることから、新型コロナウィルス感染症の集団感染のリスクを避けられないと判断し、2023年(卯年)の実施を見送った そのため、今年は少人数での道ジュネー、【上宜保】(保栄茂の国元の屋敷)への祈願と奉納演舞、コージャーヤーへの奉納演舞の形でとり行った。ミルクは道ジュネーに参列しないなど、規模は縮小して行われた。

記録

文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
■文献(『豊見城村史』(1964年)、「豊高郷土史第3号1970年11月」などが古い時期の巻ち棒についてまとめられている) ■映像記録(2005年、2011年、2017年の十五夜は記録映像が存在する。特に2005年のものは、全体の行事の流れをひとつにまとめたダイジェスト版ともいえるもののほか、棒術の練習風景、拝み行事、道ジュネー、十五夜での出し物(演武を含む余興)、巻ち棒などそれぞれのテーマごとにDVD化されたものがある。また、未確認ながら、OHK(NHK沖縄の前身)が1969年に巻ち棒を取材したともいわれており、もし動画が残っているのなら保栄茂の巻ち棒に関する最も古い映像記録になると思われる) ■プログラムや式次第(実行委員会がプログラムも掲載したパンフレットを発行している。市文化課では複製(コピー)も含めて1975年、1981年、1987年、1993年、1999年、2005年、2017年分のパンフレットを所有している)