調査票結果
- 地元での呼び方
- ボー(棒術)、また字内の主要な聖地を巡拝してボー(棒術)を奉納するため、ボーチケー(棒使い)とも呼んだ。
武術的身体表現の形態
- 武術的身体操作・表現の形態
- 大きく分けてタンカーボー(タンカーは一対一の喧嘩の意)、ダンナボー(二人棒)、サンニンボー(三人棒)、トゥンボー(殿棒)の4種類があった。
タンカーボーは東西からそれぞれ1人ずつが出て 1組になり、1対1の対戦形式で行う組棒である。タンカーボーの相手は13歳のミーボーグヮー(新棒グヮー)の時に決まり、その組み合わせは生涯を通じて変わらなかったため、特に親しい者同士が組むことが普通であった。組んでいる相手が不在の場合は、演武の後半で相手のない者同士がその場で組んで演じ、これをヒリーボーといったが、ヒリーの意味は不明である。
ダンナボーも2人で演武するが、タンカーボーのように戦うのではなく、並んで同じ型を見せる棒であった。これは相手を2、3年ごとに交替して若者たちが型を引き継いだ。
サンニンボーは名称のとおり1対2の3人1組で演ずる組棒で、1人は六尺棒、2人は三尺の短棒を持って戦った。いずれのボーより激しく戦うのが特徴で、時に怪我をする恐れもあった。トゥンボーは基本的に2対2の4人組棒で、ウフトゥン(大殿)の拝所で行うことからこの名称が付いたといわれている。これらはダンナボーと同じく2、3年ごとに組み合わせを交替して行うが、必ず東西が戦う形式とした。
また、ボーマキ(棒巻)といって参加者全員を2組に分け、それぞれの隊列が数分間にわたって円陣を作ったり解いたりと隊形を変えていく集団演武がある。各組の先頭がそれぞれ槍と長刀を持って先導役を務め、ほかの参加者はそれに続いて棒の下端を胸の高さで掴み、ヤグイーといって威勢のいい掛け声を発しながら棒を上に突き挙げて演武する。これはスーマキ(総巻)とも呼ばれているが、左右から進んできた2つの隊列が、ぐるぐると回りながら1つになっていく様子が、まるで渦潮のように見えることからスーマキ(潮巻)の意味であるともいわれる。 - 武術的身体操作・表現の分類
- ■型の演武(舞)がある
■対面での打ち合い等がある
時期・場所
- 行事が行われる期日(旧暦)
- 旧暦8月15日。2018年以降は大綱引きが4年に一度の開催となり、あわせてボーチケーも4年に一度となる予定(ただし、以降はコロナ禍により開催されていない)
- 上演の場所
- 綱引き前の御願で拝所を巡拝しながら棒術を披露する。公民館を出発した一行は、ヌンドゥンチ(ヌン殿内)、ヒゲーブンシ(左風水)、ウフトゥン(大殿)、ナーザトゥダキ(宮里嶽)、アジバカ(按司墓)、ジトゥービヌカン(地頭火ヌ神)、ブシバカ(武士墓)、ナナチバカ(七つ墓)、ニギリブンシ(右風水)、マツーモー(松モー)、メーミチ(前道)の順に回って拝み、公民館に戻った。それらの拝所では拝んだ後にボーの演武を数組ずつ奉納し、マツーモー、メーミチ、公民館ではさらにボーマキ(棒巻、後述)と呼ばれる集団演武も行った。また、集落北西の丘陵上にあるブシバカを拝んだ後は、ブシバカ南の見晴らしの良い場所で演武者たちが一列に並び、ブラの合図で西方に位置する字新垣の集落に向かって、一斉にチキボー(突き棒)をした。このチキボーは、字新垣と字真栄平がかつて互いに敵対視していたことの名残ではないかともいわれている。
行事の目的・由来・伝承
- 行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
- 作物の豊穣とムラの繁栄などを祈願する。ボーチケーは多くの人が見守る中で行われる若者の祭典であり、男性の健康を祝うという意味もあることから、かつては字の男性がこぞって参加した。
- 中断・再興の時期とその理由
- 2017(平成29)年の真栄平区定期総会で、ジューニンガシラ(十人頭)を務める人が不足しているとの理由から、大綱引きが4年に1度の開催となることが決定している(以降はコロナ禍により開催されていない)。綱引きの御願はコロナ禍でも行われているが、区長や役員が拝みのみ行っており、ボーチケーは休止中である。
- 武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
- 不明
当該行事における意味
- 行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
- 綱引き前の御願の巡拝時に、各拝所にて奉納される。実際の綱引き前には、綱引きが実施されるメーミチ(前道)でも各種演舞が行われる。
組織・指導者・伝承方法
- 組織
- 字行事として行われる真栄平大綱引きに付随する行事であり、真栄平自治会が主催し、ジューニンガシラ(十人頭)と呼ばれるムラの役員が行事の運営を担当する。
- 組織の特化
- ■ムラの男性によって継承されている
- 各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 伝承のための組織は特にない。
- 指導者の氏名(さかのぼるまで)
- その時々の年長者が後輩を指導した。
- 出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
- 戦前は13歳から45歳までの字内の全男性が参加することになっており、体が不自由で演武できない場合でも、カニやブラといった鳴り物など何らかの役目を受け持ったが、過去1年間に身内が亡くなった者は参加しなかった。現在は十人頭が中心となって行っている。
稽古の仕方、期間
- 稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 毎年ジューグヤー前の8月11日から14日まで集まって練習をすることになっていた。
- 稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 公民館
演舞(武)構成
- 演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
- 8月15日の午後1時くらいから綱引き前の御願に付随してボーチケーの演舞を行う。また夕刻、日が落ちてから綱引き場で各種ボーの演技を披露する。
- 集落以外での披露の有無
- ■集落のみでしか演武(舞)したことがない
衣装・道具
- 衣裳・道具の名称と着方
- 衣装は別添資料「真栄平の棒」参照、名称は不明。東西の旗頭とは別にボーチケーの際に立てられるボーバタ(棒旗)と呼ばれる旗頭があり、ジューグヤーの御願で字内の拝所を巡拝する際、隊列の先頭に掲げられる。ボーバタはジューグヤーの日の朝、トゥールー(灯籠)の骨組みや竿が保管されている〈謝名〉のカミアサギから出されるが、この時から晩にその年の綱引きの勝負が決するまでは、前年勝った側の十人頭しか触れることができないとされている。また、綱を引く時には、前年のジューグヤージナ(十五夜綱)で勝った側に立てられ、その年の勝敗が決まると、勝った側の十人頭がボーバタを担ぐ。このように勝者が持つハタであることから、近年では優勝旗と呼ぶ人も多い。
ボーバタの頭部には先が3つに分かれた三つ叉の鉾型(ほこがた)の飾りを立てて、その下に円盤状の竹の骨組みを取り付け、これに幅3㎝、長さ40㎝ほどの帯状に切った色とりどりの紙が下げられる。もともとボーバタの頭は先が1本の槍状であったが、首里からの寄留士族で指物(さしもの)大工であった末吉のタンメー(士族のおじいさん)の考案により、現在の三叉の鉾形に改められたという。ナガシには縁起の良い鷲(わし)の意の「嘉祥鷲(かしょうわし)」と書かれている。 - 衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
- 衣装と棒は真栄平コミュニティーセンター(公民館)でまとめて保管している。全員が参加していたころは、各家庭で棒を保管していた。ボーバタは公民館西隣の屋号〈謝名(ジャナ)〉の敷地内のカミアサギと呼ばれる神屋内に保管されている。カミアサギは別名ハタジョーとも呼ばれている。
- 衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
- 修繕、購入などは字費で購っている。
- 棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
- 材質自体の名称は不明だが、実際に組み合って激しく打ち合うので、重めの丈夫な材質の棒を使っている。
音楽
- 楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
- なし
- 楽曲(戦前、戦後の変化)
- なし
課題
- 支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
- 大綱引きに付随する行事であるため、大綱引きが開催されないと行えない。字の人口は増えているようだが、綱打ち(綱作り)に参加する人は減っていることから、大綱引きの開催は年々困難な状態になっており、今後はボーチケーも含めて開催できない公算が大きい。また十人頭のほとんどが字出身だが字外に居住しているため、練習日に集まりづらい。ボーチケーの指導者も加齢が進み、継承がうまくいっていない。
- コロナで影響を受けたこと
- 4年に1度と決定した後、コロナ禍に見まわれたため、実質一度も行えておらず、今後継続的に開催していけるのかどうかがわからない。
記録
- 文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
- ■■映像記録
■古老の記録、メモ


