調査票結果

年中行事名
■豊年祭(棒術の集団演武や個人演武を行う )
市町村名
糸満市
行政区
新垣
小字名
(アラカキ)
地元での呼び方
ボーマキ(棒巻き)と呼ぶ。

武術的身体表現の形態

武術的身体操作・表現の形態
十五夜に行われる字新垣の伝統行事で、公民館前の広場で集団演武と個人演武あわせて約1時間かけて披露される。四方巻きとも呼ばれる集団演武のマクン(巻くの意)は新垣のボーマキの大きな見せ場のひとつ。個人演武では、1対1の対戦形式で行われるタンカーボー(一対一棒)、2人並んで同じ型を見せるダンヌボー(二人棒)、2対1のサンニンボー(三人棒)などがある。そのうち、タンカーボーはアガリンダカリ、イリーンダカリからそれぞれ1人ずつ出て、樫(かし)などの堅い木で作った六尺棒で対戦するもので、激しく打ち合うためオーエーボー(喧嘩棒)とも呼ばれる。ダンヌボーは通常2人で行うものだが、新垣では1人で行うことが多い。
武術的身体操作・表現の分類
■型の演武(舞)がある ■対面での打ち合い等がある

時期・場所

行事が行われる期日(旧暦)
旧暦8月15日の十五夜行事だが、2013(平成25)年より運営上の理由により旧暦8月15日に近い日曜日に開催している。ただし、ボーマキの成功と演者の安全を祈願するボーマキウグヮン(棒巻き御願)は、変わりなく旧暦の8月15日に行っている。
上演の場所
○ボーマキの本番は公民館前の広場で行う。 ○旧暦8月15日のボーマキウグヮン(棒巻き御願)では、本番と同じ衣裳を着た演者が拝みの後に奉納演武を行う。巡拝先は、国元、トゥン(殿)、〈ヌン殿内〉の神屋、ジャナブシ(謝名武士)の墓で、最後はトゥンの南側の路上でヘーユンとミチボーという演武を行う。終わると、ブラやカニを鳴らしながらミチズネーで公民館に戻る。

行事の目的・由来・伝承

行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
行事の目的:若者の心身の鍛錬、地域行事の伝承、豊年・平安の祈願、郷土愛の育成、地域レクリェーションなど。 伝播方法:昭和61年に、新垣の伝統行事である棒巻きを正しく継承するとともに、後継者を指導育成することなどを目的に「字新垣棒巻き保存会」を結成した。また、同保存会は平成20年にボーマキの歴史や演武解説などについてまとめた『アラカキ棒巻きの歴史』を発行している。
中断・再興の時期とその理由
太平洋戦争勃発のため、1942(昭和17)年からしばらく中断していたが、1951(昭和26)年に復活している。しかし、1959(昭和34)年から再び継続が厳しくなり14年間中断した後、1973(昭和48)年に再復活を遂げ、現在に至っている。しかし、2019(令和元)年は悪天のため、以降もコロナ禍により2022(令和4)年まで4年連続で中止している。ただし、旧暦8月15日に行う御願と奉納演武は継続して行っている。
武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
新垣のボーマキは、古い時代にジャナブシという人物が伝えた棒術が始まりとされる。前述した保存会の調査によると、1877(明治10)年ごろに字国吉のティラ(南禅廣寺)に奉納された小禄具志(現那覇市小禄字具志)の棒術演武をムラの人たちが松の木に登って見学し、それを取り入れたのが、現在四方巻きと呼んでいる集団演武であるという。ボーマキ御願では謝名武士が葬られているとされる墓を拝み、奉納演武も行う。

当該行事における意味

行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
旧暦の8月15日の十五夜行事に行う字新垣の伝統行事。明治の終わり頃まではウシデーク(臼太鼓)が、戦後のある時期までは、ムラシバイ(村芝居)が、ボーマキと一緒に行われていた。

組織・指導者・伝承方法

組織
○運営は区長や評議員などの役員と、ジューニンガシラ(十人頭)が中心になって行う。 ○「新垣棒巻き保存会」の役員が練習開始の御願、練習、本番などの場面に立ち会う。
組織の特化
■武術の部分に特化した組織がある(「新垣棒巻き保存会」)
各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
別紙1参照 ※『アラカキ棒巻きの歴史』より
指導者の氏名(さかのぼるまで)
○ボーガミーと呼ばれる指導者を設け、練習時の指導のほか本番での指揮も担当する。
出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
○かつては字新垣の13歳から15歳の男子は強制参加だった。演者は現在も男性のみだが、年齢は問わない。新垣出身で字外に住んでいる男性も参加している。 ○ボーマキは多い年には80人以上いたこともあるというが、近年では年々減少し、現在は半数近くに減っている。

稽古の仕方、期間

稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
○本番の2週間前から毎日2時間行う。 ○本番の1週間前から集団演武の練習が加わり、練習内容が本格化する。(集団演武の練習の前に安全を祈願するティーンダティヌウグヮンが行われる) ○本番前夜はメーシクミといい、本番と同じ内容の予行演習を演目通りに行う。
稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
本番と同じ公民館前の広場

演舞(武)構成

演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
別紙2参照 ※プログラム構成は年度によって変わる
集落以外での披露の有無
■集落以外(市町村内)で演武(舞)したことがある 

衣装・道具

衣裳・道具の名称と着方
衣裳→別紙3参照 ※1990年代撮影 道具→別紙4参照※『新垣棒巻きの歴史』より
衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
不明
衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
○会場に掲げる旗頭とジーバタ(字旗)は、普段、国元のカミアサギに保管している。ジューグヤーの1週間前に十人頭によって運び出され、壊れている部分はその日のうちに修理される。 ○衣裳は個人所有物なので各自で保管している。 ○槍旗や棒、鳴り物などの道具は字の所有物なので公民館の倉庫に保管しており、修理費なども字が負担する。
棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
昭和48年の再復活の際、旗頭や棒などの武具、衣裳などは字の人たちが手配した。棒は那覇市壺屋の馬車屋で八角材を60本程度購入し、やすりで磨くといった仕上げ字の人たち各自で。旗頭の文字も字の人が書き、衣裳も各家庭で準備した。

音楽

楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
別紙1参照 ※『新垣棒巻きの歴史』より
楽曲(戦前、戦後の変化)
特になし

課題

支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
字の人口減少に伴い、ボーマキへの参加者が年々激減している。直近の例としては、練習への参加者は18人程度で、本番当日も50人程度だった。新垣のボーマキは来賓客がいるので、みっともない集団演武をするわけにもいかず、当日は字外の人たちにも声をかけ人を集め、なんとか形にすることができた。
コロナで影響を受けたこと
コロナ禍の糸満市では糸満ハーリーや大綱引きなど、規模の大きな年中行事が軒並み中止となっているので、字新垣のボーマキを開催して集客する、というわけにもいかず中止とした。

記録

文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
■文献→『アラカキ棒巻きの歴史』(2008年) ■映像記録→「対米請求権地域振興事業助成金補助事業 糸満市民俗文化財映像化事業 新垣の棒巻き」(2002年) ■プログラムや式次第