調査票結果

年中行事名
■盆行事(旧暦7月16日 盆の翌日に行われるヌーバレー行事)
市町村名
南城市
行政区
津波古区
地元での呼び方
津波古では「ヌーバレー」と呼ばれている。

武術的身体表現の形態

武術的身体操作・表現の形態
棒の演武があり、大きくはメーカタボウ(舞方棒)、組棒、棒マチの三種類ある。津波古の棒マチは「ゼーマチ」と呼ばれる〔18 演武(舞)構成 (芸態)参照〕。
武術的身体操作・表現の分類
■型の演武がある ■対面での打ち合い等がある

時期・場所

行事が行われる期日(旧暦)
旧暦7月16日 ヌーバレー ※戦前は旧暦7月、8月の年中行事で行われていた。「村遊び」では「棒マチが行われた。
上演の場所
道ズネーイではムラヤー(字事務所)に集まり、近くにある「大松當(屋号)」の庭で棒術を二、三組演じてから、中通り(古くは前道)を東へ進む。行列は東へ進んで、字の東北端の「シンリモーグヮ」という小広場で棒を演じた。さらに津波古大通りである東西200メートルある大通り「ンマウィーグヮ」に出て、「上福増小ヌ前(屋号)」〔現在は宮城福明氏宅〕という家の前では、先導の棒マチ等が披露される。〔『佐敷町史 2 民俗』〕

行事の目的・由来・伝承

中断・再興の時期とその理由
津波古では昭和25(1950)年に棒マチを行って以来、平成6(1994)年に44年ぶりに復活した。〔『佐敷町史 2 民俗』〕
武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
0津波古には三種類のメーカタボウ(舞方棒)があった。一つは玉城間切の新原(ミーバル)の人から、大兼久小(ウフガニクグヮー)〔宮城家の屋号〕のウスメーが習い、これを宮城柳一氏〔屋号:仲嶺(ナカンミ)〕に伝えている。いま一つは、玉城間切の前川敷名小(メーガーシチナグヮー)という人から当山専業氏〔屋号:東当山(アガリトーヤマ)〕が習い、当山専業氏から嶺井南康氏が受け継いでいる。もう一つは嶺井永源氏(ブラジル在)の棒があったが、今は後継者がないままとされる。 0ミッチャイボウ(三人棒)は津波古独特のものといわれる。大正12(1923)年ごろに創作された。中打ち一人に、側(ハタ)打ち二人が対して戦う、勇壮なものである。創作時の中打ちは宮城柳一氏、側打ちは津波高平氏と山城某氏であった。 0ユッタイボウ(四人棒)は、明治43年(1930)頃に楚南小ム前、新大屋、前道、西当山の四人の棒好きの若者が、勝連津堅島の「棒まつり」の時に、四人棒をこっそり盗み見た。四人で分担して、津堅の青年たちの棒をじっくり見て、演技が終わると、四人は津堅の浜でヤンバル竹を持って練習した。再度引き返して、津堅の棒を見て確認し、小舟に乗って急ぎ知念の安座真に着いた。忘れないようにここでも一度手合わせをした。このようにして津波古に持ち帰って伝承した。〔『佐敷町史 2 民俗』〕

組織・指導者・伝承方法

組織の特化
■武術の部分に特化した組織がある(保存会設置 津波古棒術保存会) ※津波古の棒術は昭和57(1982)年に南城市の無形文化財(芸能)に指定されている。
各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
津波古棒術保存会が棒術を披露する。
出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
○棒は14・15歳から20代までが参加するが、主として青少年が中心となった。〔『佐敷町史 2 民俗』〕

稽古の仕方、期間

稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
「棒ズリー(棒の勢揃い)」のときには自分に適した相手を見つけて練習し、自分たちに適した技を習った。〔『佐敷町史 2 民俗』〕
稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
2023年のヌーバレー当時は、本番前に公民館前の広場にて事前の練習を行っていた。

演舞(武)構成

演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
【メーカタボウ(舞方棒)】 メーカタ棒は歌・三線にのせて祝いや行事の最初に演ずるものである。一人で六尺棒をもって、歌・三線に合わせて舞うように棒を使うことからこの名がついたとされる。津波古には三種類のメーカタ棒があった(由来・伝承参照)。 【棒マチ】 棒マチは大勢でにぎやかに演ずるもので、巻き方によって、ゼーマチ、グーヤーマチ、ウママチ、ナミマチの四つがある。津波古はおもにゼーマチが演じられる。ゼーマチは200人近くの棒人衆が前棒組(奇数組)と後棒組(偶数組)の二組からなり、入場は飾りをつけた薙刀を持つ組頭の先導で、一列隊列になって、左回りに円陣を作りながら、3回小走りにまわる。3回、まわり終わると、行進をやめ、前棒組と後棒組が一斉に組棒を行う。さらに3回まわって、薙刀が出発地点に戻ると、前棒組はそのまま進んで内円を作り、後棒組は反転して外円を作る。両組ともまわりながら相手の棒にカチカチと合わせる。前棒組と後棒組は二手に分かれて行き、円の中央で組棒体勢に入る。中央でタンカー棒(一対一)を順次全員で行い、一列隊列で退場する。前棒組と後棒組は二手に分かれて行き、円の中央で組棒体勢に入る。中央でタンカー棒を順次全員で行い、一列縦隊で退場する。 【組棒】 組棒は銅鑼鉦の調子に合わせて演ずるもので、以下のような種類があった。 1チュイボウ(一人棒):一人棒クンヌティ(棍の手)を有段者が行う。三線の曲に合わすのではなく、銅鑼と鉦鼓の調子に合わせて行う。/2タイボウ(二人棒):タンカー棒を一対一で行う。※棒の技は大抵決まっているが、いろいろ工夫して技を入れることができた。/3ミッチャイボウ(三人棒):一対ニで行い、中打ち一人と側打ち二人が行う。三人棒の中打ちは大柄な者が撰ばれる。/4ユッタイボウ(四人棒):四人が前後左右の者と闘う。/5グニンボウ(五人棒):中打ち一人対側打ち四人で行う。古くは中打ちが六尺棒、側打ちが三尺棒であったが、大正12(1923)年頃から全員六尺棒を用いるようになった。中打ちには三人棒と同様に大柄な者が撰ばれる。中打ちを先頭に、側打ち四人は二列になって舞台に進み出て、中打ちは一人で棒を演じる。次に四人の側打ちは各々似た技を二、三手演じる。次に中打ちは向きを四人に向け、四人をにらみつけ、中打ち対側打ちの戦いが始まる。四人の中央に飛び込んで四人の棒を受け、跳ね返したり、足切りを入れたり、首切りをしたりなどのわざを演ずる。/6ハジリボウ(はじり棒):大抵の組棒に約束ごとがあるのに対し、ハジリ棒は約束ごとがなく、自由に打ち合うケンカ棒である。酒座の余興の時に行われ、おもしろ、おかしく行われる棒である。ルールらしきものといえば、2回くらいずつ勝たせて、両者引き分けにし、闘いが激しくなるのを避けたという。〔『佐敷町史 2 民俗』〕 ○2023年のヌーバレーでは、棒マチはなく、公民館の舞台上で、メーカタ棒(1名)、一人棒(1名)、二人棒(2名)の三演目が披露された。棒の演武は銅鑼打ち(1名)の音に合わせて行われた。
集落以外での披露の有無
■集落以外(市町村内)で演武したことがある※佐敷村文化まつり(昭和52年) ■公民館やホールなど(市町村外)で演武したことがある ■その他(※組棒は昭和45(1970)年の大阪の万国博覧会で、県の出し物の一つとして出演。)

衣装・道具

衣裳・道具の名称と着方
棒は六尺棒と三尺棒がある。

音楽

楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
銅鑼は各組棒に打たれるもので、演技中に打ち鳴らされる。
楽曲(戦前、戦後の変化)
メーカタ棒では歌と三線に合わせて棒を演武するが、楽曲は「かぎやで風節」である。 歌詞は次の通り。「出ジミソリ メカタ ワンヤ ウタサビラ ニセガスル メカタ 見ブサ ビケイ(出てくださいませ 舞い方 わたくしは歌をうたいましょう 若者がする 舞い方を見たいものだよ)」 節々に力を入れ、歌と共に始まり、歌と共に終わるようになっている。時々ヤグイ(かけ声)を入れる。〔『佐敷町史 2 民俗』〕

課題

支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
青年会も人が少なくなってきていて、会の運営が厳しい。
コロナで影響を受けたこと
ヌーバレーの行事も4年ぶりの開催となった。出演者がいなくて、必要な人員を集めるのに苦労したので、以前のような演目をすべて実施するのは難しかったたため、今回はプログラムを縮小し、一部は以前に撮影した録画のDVDによる上映も加えて開催することにした。

記録

文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
■文献佐敷町史編集委員会 『佐敷町史 2 民俗』佐敷町役場 昭和59年(424~443頁)/『検証 沖縄の棒踊り』