調査票結果
- 地元での呼び方
- 棒術
武術的身体表現の形態
- 武術的身体操作・表現の形態
- 9つの型があり、特に棒術の原型とされている津堅暗闇(チキンクラシミㇴボウ)は技が非常に難しく、長いため上級者しかできない型である。一般的な棒術は六尺棒で演武し、四方に向きを変えるが、津堅棒は八方に向きを変える。幕開けで行う舞方(メーカタ)はその場の邪気を祓い清める意味がある。
- 武術的身体操作・表現の分類
- ■型の演武がある ■対面での打ち合い等がある
時期・場所
- 行事が行われる期日(旧暦)
- 観音堂380年祭までは、旧暦9月18日に行ってきたが、385年祭からは9月28日以降の日曜日に階催されるようになった。参加者の仕事の都合等によるもの。
- 上演の場所
- 観音堂前広場で行う。
行事の目的・由来・伝承
- 行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
- 5年ごとの観音堂祭の旧暦9月18日に、演武された。村の発展、子孫繁栄、豊年満作の祈願と漁師の海の安全航海祈願をこめて行う。
- 中断・再興の時期とその理由
- 1750年代に奥武島に伝えられた。観音堂祭で披露演武されていたが、1947年(昭和22年)以降戦後の混乱期の最中、区民総出の行事がなくなり、演武も途絶えた。1973年(昭和48年)大城区長の依頼で旧十五夜祭の余興として演舞した。これを機に棒術経験者の長老たちから復活の機運が高まり、練習が始まった。1974年(昭和49年)玉城村芸能発表会で演舞し、復活した。 1975年(昭和50年)の観音堂360年祭で27年ぶりに復活した。
- 武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
- 奥武の漁師が漁に出て、八月十五夜以降はどこかの島で休みを取らなければならない。津堅島で滞在したとき、棒術が盛んだった津堅の方から棒術を伝授し、1750年代奥武島に伝えられた。 若者たちがこぞって熱心に棒術の練習に励んだ。各家庭には六尺棒があり、中柱に強く結んだ。その理由は、外で喧嘩が起きた時、棒を外し取る間は時間がかかるのでその間に喧嘩が治まるからだといわれた。 棒術は危険を犯すために習得するものではなく、自分自身を鍛錬するためにするものだと自覚した。
当該行事における意味
- 行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
- 団体演武で潮巻チ(スーマチ)という型があるが、うずを巻いて流れる渦潮より考案された由来がある。観音堂に向かって前棒の団体は西側、後棒の団体和東側で左周りに、ゆっくりゆっくり内側に巻いていく。 漁師から伝わった棒術の意味がそこにあると思われる。
組織・指導者・伝承方法
- 組織
- ・保存会が結成され、定期的に練習している。子どもたちにも伝承し後継者育成も行っている。地域の諸行事には子どもたちが行うが、伝承者は観音堂祭でしか演武しない。 ・公民館に棒術の型の写真を展示し、区民に広く伝わるようにしている。
- 組織の特化
- ■武術の部分に特化した組織がある(保存会設置) ■武術の部分は専門の師匠がいる(伝承者がいる)
- 各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- ・伝統を継承するために、自治会が主体となって保存会を設立し、地域内で継承者の育成に努めている。
- 指導者の氏名(さかのぼるまで)
- (舞方)中村寛徳(死亡) 嶺井幸彦(死亡)安次富彦弥 (津堅暗闇ぬ棒) 嶺井順進(死亡)観音堂360年祭から385年祭まで演舞した そのあと息子の順二さんが復活し、指導者として引き継いでいる
- 出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
- 9つの型があり、特に棒術の原型とされている津堅暗闇(チキンクラシミㇴボウ)は技が非常に難しく、長いため上級者しかできない型である。一般的な棒術は六尺棒で演舞し、四方に向きを変えるが、津堅棒は八方に向きを変える。幕開けで行う舞方(メーカタ)はその場の邪気を祓い清める意味がある。
稽古の仕方、期間
- 稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- ・5年ごとの観音堂祭に演武するので、そこに照準を合わせて稽古する。 ・練習の中で、27年ぶりに復活した潮巻ち(スーマチ)や80年ぶりに復活した櫂ぬ手(エークㇴティー)などがある。
- 稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 公民館や観音堂前広場
演舞(武)構成
- 演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
- 1 舞方(メーカタ)「かぎやで風」の曲にのせて幕開けで演武する。その場の邪気を祓い清める意味がある。 2 潮巻チ(スーマチ) 団体演武で潮巻チ(スーマチ)という型があるが、うずを巻いて流れる渦潮より考案された由来がある。観音堂に向かって前棒の団体は西側、後棒の団体和東側で左周りに、ゆっくりゆっくり内側に巻いていく。 行進中の掛け声は、「ヤイ、ヤイ、ヤイ」と勇ましく発し、相対して棒と棒をカチカチと合わせる。 3 大槍ぬ手(ウフヤィㇴティー)槍が前棒、ナギナタが後棒で相対して演武する。奥武島の代表的な棒術である。 4 槍小ぬ手(ヤィグァーヌティー)大槍ぬ手から抜粋して演武を短くした。 5 砂掛ちぬ手(スナカチㇴティー)漁師のエークが前棒、釣り人の鉛が後棒となり相対する。 6 尺小ぬ手(シャクグワーㇴティー)六尺棒と三尺棒との組棒。三尺は刀を棒に変えたとのことである。 7 ブイ小ぬ手(ブイグワーㇴティー)薪を取る人が、短い2本の棒を持ち、農夫が六尺棒を持って組み棒を演武する。 8 櫂ぬ手(エークヌティー)エークの1人棒である。80年ぶりに復活した。 9 津堅暗闇(チキンクラシミㇴボウ)棒術の原型とされているが技が非常に難しく、しかも演武が長いため上級者しかできない型である。メーカタ棒は、四方に向きを変えるが、津堅棒は八方に向きを変える。 観音堂360年祭に初めて演武した。
- 集落以外での披露の有無
- ■集落以外(市町村内)で演武したことがある ■公民館やホールなど(市町村外)で演武したことがある
衣装・道具
- 衣裳・道具の名称と着方
- 現在、衣裳は、空手着(上下)を使用。頭には紫の「はちまき」と白(しろ)のはちまきを巻く。はちまきには、「奥武島」のシンボルマークを記している。
- 衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
- ・衣裳の管理は会員個々人が保管する。 ・ハチマキ等は、公民館で管理している。
- 衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
- ・それぞれ個人で保管している。 ・自治会から保存会に予算が計上されているので、古くなったタオル等は購入する。
- 棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
- 守礼堂から購入した。
音楽
- 楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
- ・三味線やジカタがいる。(5名ほど)
- 楽曲(戦前、戦後の変化)
- ・これといったものはないが、棒使いに合わせた独特のカニ(銅鑼鐘)の使い方や指笛の鳴らし方がある。
課題
- 支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
- ・1,000名を超えていた人口が、年々減少し、高齢化が進んでいる。今後の継承者不足が心配である。 ・
- コロナで影響を受けたこと
- ・コロナ禍の中で2020年度から22年度まで3カ年間、練習を控えていた。
記録
- 文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
- ■文献 ■映像記録(観音堂祭での演武を常に映像記録している。演武の型の写真展示が公民館で常に展示されている) ■古老の記録、メモ(2,011年3月発刊の奥武誌に棒術の伝承由来や古老の記録が記載されている) ■プログラムや式次第


