調査票結果

年中行事名
■その他(結願祭(きつがんさい)、その他、イベント等でも演舞。)
市町村名
石垣市
行政区
宮良
小字名
石垣市字宮良
地元での呼び方
宮良棒(メーラボウ)

武術的身体表現の形態

武術的身体操作・表現の形態
基本的に、空手の延長である「棒術」の要素で構成されている。また奉納棒とも位置づけされていることから、棒術とは離れた所作も含んでいる。
武術的身体操作・表現の分類
■型の演武(舞)がある ■対面での打ち合い等がある、 

時期・場所

行事が行われる期日(旧暦)
神年とされる子年、寅年、午年、酉年の旧暦10月頃。
上演の場所
オーセ(拝所)。※オーセとはかつての村番所跡。現在は常時、火の神を祀る拝所。年行事の際には、各オン(御嶽)から神々を招聘して祈願がなされる。

行事の目的・由来・伝承

行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
宮良棒が奉納される結願祭は、火の神と各オン(御嶽)から招聘した神々に村の繁栄、五穀豊穣を祈願するため、芸能や旗頭、棒を奉納する行事である。宮良棒は、「結願棒(きつがんぼう)」とも呼ばれる。
中断・再興の時期とその理由
明治以降、第二次世界大戦に一時中断した。戦後に再興して以降は、中断はない。
武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
明治の初期に伝授された棒術は、スピードの速い「武術」としての演舞と、所作が遅く見得を切る「奉納棒技」としての要素の演舞が混在していたと伝承されている。沖縄三大空手家のチャンミー(喜屋武朝徳)が明治後期に慶田花家に数ヶ月逗留し、空手を伝承しているが、宮良棒への影響は部分的なものに限られている。また、同じく本部ザールー(本部朝基)も山城家に逗留し、指導を行っている。一人棒の演目があるが、他の棒と違って武術性が高いことから本部の足跡である可能性がある。

当該行事における意味

行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
宮良棒の行事中における位置づけは、ほかの芸能や旗頭と同様、演舞を神々に奉納するという意味と考えられる。護身術として、村の若者の鍛錬の一環としての意味もある。

組織・指導者・伝承方法

組織
明治から大正、昭和初期までは、個人道場が技術をもって村行事に協力する関係性であった。昭和20年代に、保存会が結成され、公民館の傘下団体となり現在に至っている。
組織の特化
■武術の部分は専門の師匠がいる
各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
宮良棒は、廃藩置県以降に、沖縄本島から来た空手家によって、隣村の白保村と宮良村に「棒術」が伝授されたことが始まりだと古老の伝承がある。伝授された棒術は、個人の技術、道場所有的なものと位置づけされ、行事の際に師匠が村行事に協力する形で村の若者たちによって演舞集団が構成された。個人で集団を構成し指導することは負担が大きいことから、昭和20年代に保存会を結成し、公民館の傘下団体と位置づけされた。
指導者の氏名(さかのぼるまで)
上里氏、玉津氏、前花氏、国吉氏、伊良部氏、大久氏、添石氏、前島氏、前盛氏、前花氏、大久氏、慶田花氏
出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
16歳~40歳程度までの男子で構成される。年代は、各時代ごとに幅が違いがある。現在は20~35歳くらいで構成されている。昭和50年代までは最後の「師匠」と言われた大久氏が面談を行った上で、俊敏性に欠ける男子は「また来年来なさいね」と指導を断った事例も多々ある。

稽古の仕方、期間

稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
結願祭が行われる旧暦10月の三ヶ月前頃から行われる。
稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
昭和50年代頃までは、師匠(保存会長)宅の庭先と周辺道路で稽古をした。その後、公民館広場で行っている。

演舞(武)構成

演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
一人棒(フル棒)、大久家の手、大得家の手、前花家の手の3系統がある。 二人棒(六尺棒と呼ぶ)、形式は、突く六尺棒、抜く六尺棒、短尺棒(三尺棒と六尺棒)、六尺棒で構成。三人棒。サイと六尺棒、鎌と槍、短刀+笠と大太刀、短刀+扇と大太刀、大太刀と大太刀の種類で構成される。入場は、「ユイ、ユイ」のかけ声で場内を一周し、所定の位置につく。スナイ打つ(両者が並んだ状態で中央に出て演舞)、バガリ打つ(分かれる、の意味。相対者が両翼に分かれて左右から中央に出て演舞する。)退場は、「ユイサー」のかけ声で棒正面で構えて走り抜ける。
集落以外での披露の有無
■集落以外(市町村内)で演武(舞)したことがある ■公民館やホールなど(市町村外)で演武(舞)したことがある ■その他(県外でも演舞したことがある。)

衣装・道具

衣裳・道具の名称と着方
脚絆、手甲、草鞋、衣類はキン(着物)と呼ばれる。頭巾は、紫と青の布を巻く(エイサーのマンサージ風)。
衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
昭和50年代までは、各人で製作、管理していたが、その後、保存会の会長宅で保存していた。平成以降は、一部は公民館で管理し、着物は各人が家で保管している。
衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
衣装は、基本的に演舞者の個人負担であったが、近年は、公民館の助成金で購入されている。棒については、市の許可を得て山林から採木し、保存会員で加工し使用している。
棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
樫、クバの芯など

音楽

楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
銅鑼、太鼓、法螺貝を使用している。各楽器の演奏者数は、戦前よりほぼ同じ人数で行っている。
楽曲(戦前、戦後の変化)
楽曲はなし。

課題

支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
衣装や棒の材料調達、加工に係る費用の支援などがあると良いのかもしれない。
コロナで影響を受けたこと
行事の中止、イベントの中止により、演舞機会が失われた。

記録

文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
■文献 ■映像記録 ■プログラムや式次第  ■その他(収集すれば揃えられるが、労力を要することから課題である。)