調査票結果
- 地元での呼び方
- タナドゥィ、ジニグヤ
武術的身体表現の形態
- 武術的身体操作・表現の形態
- 種子取祭は、10日間に及ぶ島の最大行事で節祭(シチ願い)から49日にあたる戌子(つちのえね)の日を祭日として(旧暦9月~10月)に行なう。甲申(きのえさるトルツキ)の日に計画手配をし奉納芸能の練習を始める戌子には「火の神」「農業の神」に種子取祭の祈願をし「飯初」(粟餅)を作る。7日目8日目の両日に奉納芸能があり庭の芸能舞台の芸能の奉納の中、表現の形態がある。また舞台芸能の中にもキョンギンやブドゥイの中にも空手の型など見られる。
- 武術的身体操作・表現の分類
- ■対面での打ち合い等がある ■芝居の中で武術的所作が演じられる ■その他(奉納芸能の中で庭の芸能が棒踊り棒術が見られ、腕棒は素手で演じられ、女性が舞う。)
時期・場所
- 行事が行われる期日(旧暦)
- 節祭(シチ願い)から49日目の前後10日間に行われる祭で島最大の祭の種子取祭と旧暦8月15日の十五夜祭(ジングヤ)で演じられる棒術がある。ジングヤは、ヤドウ(杖)と言われる工作物の上で演じられ大勢の担ぎ手がいる。
- 上演の場所
- 種子取祭は、世持御嶽(ユームチオン)で執り行われ、十五夜祭(ジングヤ)は、以前は各集落の指定場所で行われていたが、電線やその他の障害の為、旗頭の移動が困難なため、学校の校庭で行われた。コロナ禍で神事のみ行われ奉納芸能は中止となり、本年令和4年は神事と奉納芸能(重要な演目を数点)奉納することが出来た。
行事の目的・由来・伝承
- 行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
- 種子取祭は、真積(シラ)に保管してある栗の種子を選定し取り出しその種子の播種時期戌子(ツチノエネ)に播くことが重要であり、また播種後の種子が無事に発芽し、順調よく生育することを祈願し、その時期が来たら豊年万作でありまた来夏世も豊作であるようにとの祈願と万作であったことへの感謝を奉納芸能として神々に感謝することである。
- 中断・再興の時期とその理由
- 種子取祭は、600年とも700年とも言われており、中断等は厳密に言えばない。ただ奉納芸能最近では2020、2021年コロナ禍により中止しており、以前にも戦時中とか台風襲来により中止したことはあるが、祈願は戦時中でもコロナ禍でも中止しないでずーっと継続している。
- 武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
- 種子取祭で奉納される庭の芸能で行列と言われる演目があり最初が棒(ボー)と言われるもので棒は琉球古武術を現し棒(六尺)、槍、刀、長刀、鎌等を持って演じ、楽器は銅羅鐘太鼓ホラ貝(ブラ)の音で演技を行うため、祓い清め意味があり対面での打ち合いが基本である。また、同じ行列で女性による腕棒(ウディボー)という行列があり、女性が素手で棒を演技するので貴重で人気がある。
当該行事における意味
- 行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
- 庭の芸能での棒。腕棒(ウディボー)は行列の流れにしたがって順序は(1)棒(ボー)(2)太鼓(3)マミドーマ(4)ジツチュ(5)真栄(マサカイ)(6)祝種子取(7)腕棒(ウディボー)(8)馬乗り(ンマヌシヤ)がある庭の芸能は翌日も同じよう奉納される。庭の芸能が終わり、舞台の芸能へと移っていく戦前、戦後、復帰後は多少の変化(時代に応じて)はあると思うが基本的には変化はない。
組織・指導者・伝承方法
- 組織
- 種子取祭やその他の祭に実行委員会なるものはないが昔から公民館長が祭主となりすべての祭りを取り仕切るが古来より玻座間集落、仲筋集落に狂言部や舞踊部があり、更に玻座間集落の舞踊部は(いんのた、あいのた)の2集落に別れ、奉納舞踊の演目も決まっている。狂言部は、玻座間狂言保存会、仲筋狂言保存会があり、演目は決まっている。
- 組織の特化
- ■武術の部分は専門の師匠がいる
- 各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 上記したように各集落の狂言部(キョンギンドゥン)舞踊部(ブドゥイドゥン)には歴代の師匠が居て指導におり各部は保存会的役目しており、師匠の後継者も保存会員の中で決め脈々と続いており、戦前戦後、復帰後も変化はない。
- 指導者の氏名(さかのぼるまで)
- 各集落の狂言の師匠さんがいらっしゃるので知っている人のみを記す。東集落(アイノタ村)踊り師匠 東盛氏→内盛氏→松竹氏→内盛氏→新盛氏 西修楽(インノタ村)、上勢頭氏→上勢頭氏 仲筋集落(ナージ村)野原氏→島仲氏、玻座間狂言部 嶺本氏→万木氏→宇根氏 仲筋狂言部 前本氏→島仲氏又、島外では石垣竹富郷友会の会員を中心に玻座間狂言部中筋狂言部があり各部にも師匠がいらっしゃる。
- 出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
- 島出身で島に存在し島の祭事行事に参加できる人、また島外出身であってもよく趣旨を理解、協力出来る人また伝統的に受け継げられている家柄等、例えば弥勒神の御面などを被る人等は世襲的でありまた小学校高学年から60才~70才ぐらいで頑張れる人である。祭が近づけば各集落の会館やそれぞれの従来の場所ではじまる。
稽古の仕方、期間
- 稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 古来の習わしでは種子取祭では、トルツキ(キノエサル)の日から役割分担を決めて、練習に入るのが謂れであるが、現代では小学校高学年から参加する子もいるので夏休みに入ると練習に入る地域(集落)もある。 島では昔から男は狂言部(キョンギンドン)女は舞踊(ブドウイドン)に入るのが習わしである。ブドウイキョンギン遅くとも1か月前から始まる。
- 稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 各集落には集会所があるのでそこで練習(舞踊の場合)狂言は(玻座真はまちなみ館)中央公民館仲筋はこれまでは老人コミュニティセンターではあったが複合施設になった為、旧保育所を利用している。
演舞(武)構成
- 演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
- 庭の芸能での棒(ぼうー)は対面での打ち合いであるが1番棒から5番まであり、2人1組で1番棒は(六尺棒)2番棒は(刀と槍)3番棒は(槍と刀)4番棒は(長刀と鎌)5番棒は(長刀と刀)である。また腕棒(ウディボウ)は武具はなく素手での演武である。
- 集落以外での披露の有無
- ■集落のみでしか演武(舞)したことがない
衣装・道具
- 衣裳・道具の名称と着方
- 槍とか長刀を扱う衣裳と刀を扱う衣裳はそれぞれ違い、また一番棒の衣裳も違う。共通点はジュバンと白のズボンキャハンにワラジ黒足袋をし紫のタスキ等々である。1番棒は紫の入巻にレンコナー槍と長刀のは紅型のフロシキ?を付ける。按司が着けたレンコナーとなる。
- 衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
- 各衣裳は各地域の保存会が保管しているが棒や刀類は練習中や本番中によく折れたり破損したりするので保存会が修理したり新調したりする。また演武した当人が修理したり新調したりする。女子の衣裳も集落の保存会が集落ごとに保管している。
- 棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
- 用具は以前はデイゴ等を利用したが脆いため、現在はほとんど杉材でたまにキャンギ(イヌマキ)で作られたものが何点かある。
音楽
- 楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
- 棒(ぼうー)は銅羅鐘、太鼓、ホラ貝(ブラ)の音で演技を行う。演奏者は保存会の先輩が行う。腕棒(ウディボー)も銅羅鐘とホラ貝で行う。戦前戦後復帰後は見られない。
- 楽曲(戦前、戦後の変化)
- 銅羅鐘と太鼓で入場しホラ貝の合図で打ち合いが始まり、ホラ貝の合図で終了し退場等の動作がある。腕棒もドラとブラで開始終了、退場がある。戦前戦後復帰後も変化はみられない。
課題
- コロナで影響を受けたこと
- 令和2年、3年は奉納芸能は中止公民館では、令和2年度に種子取祭に対して、コロナウイルス対策を講じた。それは感染対策と記録作成事業を実施したそれは県文化振興会のご協力と島民の祭に対する熱い思いが奉納芸能は出来なかったが、記録作成が出来たことも継承への道である。
記録
- 文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
- ■文献 ■映像記録 ■古老の記録、メモ


