調査票結果
- 地元での呼び方
- 豊年祭→ウガンフトゥティ 公民館長及び棒座チスの世代交代の行事→チムバタイ
武術的身体表現の形態
- 武術的身体操作・表現の形態
- 棒(ぼう)は、方言で「ブ」と言う。 奉納や披露の目的で、ウガンフトゥティではトヤマウカ゜ンで祈願をした後、午後からの祝賀会で踊られる。チムバタイは、新しい公民館長の家の前や祝賀会にて踊られる。
- 武術的身体操作・表現の分類
- ■型の演武(舞)がある ■対面での打ち合い等がある ×獅子に対峙しての武術がある(武術はないが、紐付きの玉を持って踊る)
時期・場所
- 行事が行われる期日(旧暦)
- 本来、ウガンフトゥティは、旧暦6月の庚または辛の日(且つ、その日と前日と後日の3日間に丑や酉の日が当たらない日)に行われるが、近年、祖納のウガンフトゥティは、祝賀会に多くの人が参加できるように、旧暦6月の日曜日(前日から後日までの3日間に、丑や酉の日が当たらない日)で計画されている。 チムバタイは、2年に1度で、大体4月~6月頃に行われる。前年度の総会以降の日で、日程の詳細は、新しい公民館長が決める。
- 上演の場所
- ウガンフトゥティは、コロナの流行により祝賀会が行われず踊らなかった時があったが、特に影響はなかった。
行事の目的・由来・伝承
- 行事の目的・伝播の仕方 (どのように伝承されるようになったか。)
- 与那国の棒術は、およそ320年以上の歴史を持っている。乾隆年間末期の西暦1700年頃、首里出身の棒術者、幸地氏が与那国島に漂着した。彼は与那国島に住みつくようになり、島の娘と結婚し8名の子宝に恵まれた。そのうち7名の子息たちは怪童といわれ、あまりにも激しい気性と怪力の持ち主たちだったので、彼は棒術の伝授の後の危険性を恐れ、ひとり娘にひそかに棒術を伝授した。 娘が年頃になり、東迎家の先祖にあたる満名と結婚する際に、棒踊道具一式を持たせてやった。娘はその道具を用いて自分の息子4人に棒術を教えたのが始まりである。その棒踊道具は、東迎家で老朽するまで永らく伝えられていた。 また一説に、幸地氏が東迎家の孫に伝授したのが、始まりであるとも言う。 その頃、与那国島は役人が支配しており、その統制と抑圧はあまりにも厳しく、島民たちが棒術やその他の技を練ることを徹底的に取り締まったようである。そのような役人の抑制下にありながら、島の人たちは一層自分を守るにふさわし護身術として、いろいろ創意工夫して、六尺棒、三尺棒、薙刀、ティンバイ、イララ(鎌)棒、ダング(櫂)棒、マーヌムヌ棒、ハサン棒など数多くの棒術をあみだした。 その背景には、並々ならぬ辛苦があったことが伺える。役人の目を誤魔化すために、棒術をフィ(笛)やンヌン(太鼓)、ドラガニン(どら鉦)の音に合わせて踊りとしておこなうようになり、島の諸行事の際には演技として役人たちを楽しませるようにしたのであろう。 棒術本来の目的は、あくまでも身を守るためのものであったことは今更言うまでもないが、時に農具や漁具その他の器物を巧みに利用して棒術に取り入れ、練習を続けたのである。それ以来、与那国島全島(祖納東、祖納西、島仲、比川)へ棒踊が広く伝えられるようになった。 また、時代の進展とともに、他の島から取り入れたものやそれぞれの部落で創作されたものがある。 また、明治末期以降創立された久部良集落では、棒踊りをはじめ与那国伝来の民俗芸能は数少ないが、戦前から戦後にかけての一時期、他の部落からの移住者によって、棒踊りが伝授され、行事で演じられたことがある。 多くの棒踊りには各部落共通する演目が多いが、棒のティ(うつ手)は多少異なる。それは当時の指導者がそのティをいろいろと加え、他と面白さを競ってきたためだと考えられる。 天地を轟かすようなフィやンヌン、ドラガニンの音に合わせて、舞台狭しと演じる勇壮な棒踊りは、島人をして出演者、観客とも血湧き肉踊らせるものがある。今では与那国島の民俗芸能の大きな演目の一つである。
- 中断・再興の時期とその理由
- ウガンフトゥティは、コロナの流行により祝賀会が行われず踊らなかった時があったが、特に影響はなかった。
- 武術的身体表現(「空手」「棒」等)にまつわる由来、伝承や民話、説話など
- 与那国の棒術は、およそ320年以上の歴史を持っている。乾隆年間末期の西暦1700年頃、首里出身の棒術者、幸地氏が与那国島に漂着した。彼は与那国島に住みつくようになり、島の娘と結婚し8名の子宝に恵まれた。そのうち7名の子息たちは怪童といわれ、あまりにも激しい気性と怪力の持ち主たちだったので、彼は棒術の伝授の後の危険性を恐れ、ひとり娘にひそかに棒術を伝授した。 娘が年頃になり、東迎家の先祖にあたる満名と結婚する際に、棒踊道具一式を持たせてやった。娘はその道具を用いて自分の息子4人に棒術を教えたのが始まりである。その棒踊道具は、東迎家で老朽するまで永らく伝えられていた。 また一説に、幸地氏が東迎家の孫に伝授したのが、始まりであるとも言う。 その頃、与那国島は役人が支配しており、その統制と抑圧はあまりにも厳しく、島民たちが棒術やその他の技を練ることを徹底的に取り締まったようである。そのような役人の抑制下にありながら、島の人たちは一層自分を守るにふさわし護身術として、いろいろ創意工夫して、六尺棒、三尺棒、薙刀、ティンバイ、イララ(鎌)棒、ダング(櫂)棒、マーヌムヌ棒、ハサン棒など数多くの棒術をあみだした。 その背景には、並々ならぬ辛苦があったことが伺える。役人の目を誤魔化すために、棒術をフィ(笛)やンヌン(太鼓)、ドラガニン(どら鉦)の音に合わせて踊りとしておこなうようになり、島の諸行事の際には演技として役人たちを楽しませるようにしたのであろう。 棒術本来の目的は、あくまでも身を守るためのものであったことは今更言うまでもないが、時に農具や漁具その他の器物を巧みに利用して棒術に取り入れ、練習を続けたのである。それ以来、与那国島全島(祖納東、祖納西、島仲、比川)へ棒踊が広く伝えられるようになった。 また、時代の進展とともに、他の島から取り入れたものやそれぞれの部落で創作されたものがある。 また、明治末期以降創立された久部良集落では、棒踊りをはじめ与那国伝来の民俗芸能は数少ないが、戦前から戦後にかけての一時期、他の部落からの移住者によって、棒踊りが伝授され、行事で演じられたことがある。 多くの棒踊りには各部落共通する演目が多いが、棒のティ(うつ手)は多少異なる。それは当時の指導者がそのティをいろいろと加え、他と面白さを競ってきたためだと考えられる。 天地を轟かすようなフィやンヌン、ドラガニンの音に合わせて、舞台狭しと演じる勇壮な棒踊りは、島人をして出演者、観客とも血湧き肉踊らせるものがある。今では与那国島の民俗芸能の大きな演目の一つである。
当該行事における意味
- 行事の中での演武(舞)の位置とその意味(戦前、戦後、復帰後の変化)
- ウガンフトゥティ、チムバタイのどちらも、神様への奉納、披露、お祝いの意味がある。 ウガンフトゥティでは、開演を告げる「座ならし」、六尺一人が登場する「ミティアギ」と他全出演者が揃う「スナイ」のあとに3点ほど踊る。また、豊年では、豊穣に関係するイララ(鎌)を使った踊りは定番となっている。 チムバタイで踊る点数は、館長による。
組織・指導者・伝承方法
- 組織
- かつては、各家庭はいずれかの座に属して代々受け継がれてきため、棒踊りを踊る家庭も決まっていたが、最近は生活様式の変容や特に後継者不足のため、これまでの強固な座の体制は弱まっている。 現在、嶋仲棒座においては、「チス」という師匠がいて、その下に「ナガチス」と会計係をおいている。会計係は、嶋仲公民館から支給される活動費やその他の収入(祭事の祝儀など)を管理し、年間にかかる支出に充てている。
- 組織の特化
- ■武術の部分に特化した組織がある→各棒座が保有する棒踊りは、その棒座のみ特化している。 ✕武術の部分は専門の師匠がいる→専門の師匠はおらず、その踊りの経験者が教えている。
- 各組織の役割等(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 与那国中学校で行われる郷土学習の「棒座コース」を、他の棒座(東棒座、西棒座)と持ち回しで教えている。以前は2年ずつ担当していたが、今は1年交替。
- 指導者の氏名(さかのぼるまで)
- 以下、歴代棒座師匠。稲蔵氏、益氏、鳩間氏、田島氏、田島氏、前外間氏、田島氏、慶田嵩氏、与那覇氏、前外間氏、田島氏、横田氏、上原氏、上原氏、大島氏、田島氏、与那覇氏、与那覇氏。 ※公民館に残された記録を参考にしたが、記録されていない人もいる可能性有。
- 出演者の状況・条件(年齢・性別/戦前・戦後・復帰後)
- 男性のみで、年齢の制限は特にない。また、嶋仲(西五組)の地域の出身であれば、他の地域に引っ越しても嶋仲棒座に所属することが出来る。また、他の地域の出身であっても、嶋仲地域(西五組)に住んでいる人は嶋仲棒座に所属することができる。
稽古の仕方、期間
- 稽古のスケジュール(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- ウガンフトゥティの練習日程は、その年のチスが決めているため一概ではないが、当日のおよそ2週間前から始め、夜に2時間程度練習を行っている。練習の内容もチスが決めている。 チムバタイで踊られる棒の練習についても、ウガンフトゥティと同様、チスが決めている。
- 稽古の場所(戦前、戦後、復帰後等の変化についても)
- 公民館の駐車場など、屋外で練習する。
演舞(武)構成
- 演武(舞)構成 (芸態)(現状を含む)
- 1ミティアギ、2砂かけ棒、3六尺イララ棒、4ティンバイ、5三尺二人棒、6六尺二人棒、7六尺薙刀、8三尺イララ棒、9三尺三人棒、⑩マーヌムヌ棒、⑪六尺四人棒、⑫五人棒、⑬三尺五人棒、⑭チチヌ棒、⑮ンビチ棒
- 集落以外での披露の有無
- ■集落のみでしか演武(舞)したことがない ■集落以外(市町村内)で演武(舞)したことがある→他の集落のウガンフトゥティで踊ったことがある。 ■公民館やホールなど(市町村外)で演武(舞)したことがある ■その他( 県外 海外)
衣装・道具
- 衣裳・道具の名称と着方
- ・鳴り物の出演者 フィ、ンヌン、カニンの出演者全員ドゥタティ(与那国絣)をミンサー帯で絞め、数本の藁か花織シダディ(てぬぐい)を鉢巻にしていた。最近は、白いタオルを捻じり鉢巻に用いる場合が多い。 ・棒踊出演者 「衣装」を方言で、「ンナニ」と言っている。踊りによっては一部特殊な衣装があるが、ほとんど同じ衣装を着用する。上は長袖の白いシャツ、下も白のズボンを着用し、ミンサ―帯で絞め、たすきを掛ける。最近は白いシャツの代わりに、襦袢を着ている。頭は頭巾の上からサシマタとよぶ冠を掛け、脚は黒の脚絆をつける。履物は履かず素足で踊る。マーヌムヌ棒の野武士は、頭をアグイ(クロツグの黒い繊維)で覆う。最近は、ティンバイの薙刀が袴を着用するようになっている。 衣装は、1サシマタ、2頭巾、3鉢巻、4たすき、5脚絆、6白の襦袢上下、7袴、8トサカ、など。 鳴り物の道具は、1ンヌン(太鼓)、2チムンク(太鼓のばち)、3カニン(ドラ鉦)、4フィ(笛)。 棒踊りの道具は、1三尺棒、2六尺棒、3イララ(鎌)、4ナギナタ(長刀)、5ティンバイの小刀、6笠、など。
- 衣裳・棒、他の用具の管理と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後等の変化について)
- 衣装は個人で持っているが、棒座にも何組かあるため、衣装を持っていない人は個人や棒座から借用する。衣装の中でも、サシマタやトサカなどは棒座が保管している。道具は棒座が公民館で保管している。 衣装の変化として、以前は長袖の白いシャツと白い長ズボンを着ていたが、今は襦袢の上下に変わっている。その他、ティンバイ役が柄のあるズボンを着用したり、薙刀役が袴を着用するように変化している。衣装の変化は見栄え良くするためである。
- 衣裳・棒、他の用具の修繕や製作、購入の方法(担当、方法、経費など)
- 衣装や道具は、個人のものは個人、棒座のものは棒座で修繕している。 棒は石垣島のスポーツ店から購入している。折れたり、替えがなくなるまで使っている。
- 棒など用具の材質(戦前、戦後の変化)
- 棒:現在は、石垣島のスポーツ店から購入していて、それはカシの木で作られている。昔はビロウ(クバ)の幹の中心部分を使って作っていた。 薙刀:木と竹を使用。ハスノハギリ(トゥガヌタ、スガヌタ)やデイゴ(ディク゜イ)を使っている。 太鼓(ンヌン)のバチ(チムンク):オオハマボウ(ドゥニンパ、ドゥヌンパ、ドゥナンパ)を使う。
音楽
- 楽器の内容と呼称、各楽器の演奏者数と時代の変化について(戦前、戦後、復帰後など)
- ンヌン(太鼓)は、かつて15、16名ほどいたというが、現在は5名程度で、このうち真ん中に立つ人が音をとっている。カニン(ドラ)に1名、フィ(笛)に1名である。
- 楽曲(戦前、戦後の変化)
- 変化あり。音をあげる回数などが変わっている。
課題
- 支援してもらいたいことや困っていること(今後の継承等課題等)
- 道具や衣装購入の費用など。
- コロナで影響を受けたこと
- なし
記録
- 文献、映像記録、古老の記録、プログラムや式次第など
- ■文献 ■映像記録 ■古老の記録、メモ ■プログラムや式次第 ■その他( 写真など)


